病気で働けなくなった自分が個人ゲーム開発者を目指すまで

 自分のゲームを知ってもらうため、今までnoteやツイッターで情報発信を続けてきた。他にこれといった実績もないため、作品以外に宣伝することがない。無名な個人の経歴など誰も興味ないだろうと、今までろくに自己紹介もしてこなかった。
 しかし自分がどういう人間なのか周囲から全く見えないと、基本的な信用を得られないことに最近気づいた。僕が何を目指して活動しているのか、背景を整理する必要があると感じている。

 今回はいつもと趣向を変え、自作品の配信に至るまでの僕自身の履歴を、趣味でゲームを作っていた頃まで遡って説明しようと思う。名刺に書くような情報が何もないので、代わりに自分語りをしようという訳だ。
 人と違う生き方をしたい人間が普通の生き方に耐えていたら、結局普通じゃない結果になってしまった、という話である。人生の行き着く先は自分で選ぶものじゃない、とつくづく思う。

ゲームを仕事にできなかった頃

 高校時代に部活の先輩からプログラミングを習ったのがきっかけでゲーム作りを始めた。部の展示で数本作ったのち、大学時代はブラウザゲームを作って公開するのが趣味に。すぐ飽きられて当たり前のフリーゲームの世界で、端的に内容を伝えることの重要性を学んだ。
 創作に関しては天の邪鬼で、人の真似をしないことにやたらとこだわっていた。公開したゲームはどれも一癖あるものばかり。大した人気もなかったが、たまに人から感想をもらいつつゲーム制作の経験を積んでいく。

 当時から様々なアイディアが頭に浮かび、「自分だったら他と違うゲームが作れる」と漠然とした自信だけはあった。もともと大学の空気が肌に合わなかったこともあり、中退してゲーム作りに専念したいと申し出るが両親に止められる。当時は計画に具体性もなく、加えてインディーゲーム・個人開発という言葉は一般的ではなかった。
 結局2度も留年しながら卒業だけは果たす。今思い返してみると当時から体の調子がおかしく、妙な寝つきの悪さやだるさがあった。なぜこうも勉強が苦しいのか、自分でも理解できていないところがあった。

 大学時代から思い入れがあった任天堂の採用試験を受けるも、最終面接で落ちる。自分の得意分野といえばプログラミングなのだが、確か「プログラミングは好きか」と訊かれて「あんまり好きじゃない」とぶちまけた記憶がある。
 当時作っていたゲームで複雑なプログラムに挑戦し、長期間の苦戦を強いられていたため、一時的にプログラミングにうんざりしていた。思ったことをそのまま正直に伝える方が信用されると勘違いしていた頃の話である。

体の異常に気づく

 結局就活にも失敗するが、その後バイトで入った会社でそのまま契約社員として雇ってもらうことができ、一応の社会人生活が始まった。そこで人生初めてのフルタイム労働を経験し、今までにない負荷が体に掛かることになる。
 その会社では残業も滅多になく、周囲の社員たちもいたって普通に働いていた。彼らと同じ仕事をしているにもかかわらず、徐々に自分だけ周りのペースについていけなくなった。
 ディスプレイを見ていると一時間と経たずに目が疲れを訴え、思考量が増えると頭部に痛みと重さがのしかかる。ちょっとでも難しい仕事が入ると混乱して期限が守れなくなり、あからさまなミスも増えた。
 会社の理解もあって休み休み働きはしたが、これ以上は体が持たないと判断して1年ほどで退職することになる。周囲に迷惑をかけ続けていたので、精神的にも耐え難いものがあった。仕事の世界では、能力の低い人間は自然と居場所を失うものだと思い知る。

 病院に行っていくつか病名が付いたり薬を飲んだりもしたが、根本的に回復することはなかった。何か1つの病魔が原因というより、複数箇所に痛みや疲労が蓄積していて、全体的に体が劣化しているような感覚だ。
 体力と判断力が衰え、やれることが減っていった。職場でふがいない思いをしたこともあり、人間としてのプライドみたいなものが削れ落ちていく。大げさかもしれないが、自分は社会的弱者になったのだと当時は思っていた。

ゲーム作りから離れても

 仕事や病気の影響もあり、創作活動の頻度は落ちていった。しかし具体的な作業から遠のいても、ゲームのアイディアが頭に溢れかえって止まることはなかった。
 手を動かせない代わりに、色々なゲームを分析してはメモを取ったりしていた。特にネットのプレイ動画は息抜きとしても情報源としても優れていて、古今東西のゲームから要点を学びつつ、あれこれ想像を膨らませていった。
 趣味で手当たり次第にゲームを作っていた頃と異なり、他者のゲームに学ぶ回数が増えていく。個性を押し通すだけだった自分のセンスが、市場の多様性と融合して磨かれていった。

 実家で両親のサポートを受けながら次の仕事を探していた。頭に負担が掛からない単純な肉体労働を選び、1日の勤務時間も以前の半分以下にした。収入は落ちるが、当時の体力でも続けられる程よいアルバイトを見つけることができた。
 前の会社と比べて社員の平均年齢が高く、自分の父親ぐらいの働き手もいた。柔和で面倒見のいい人が多い。僕がやっていたのは誰でもできる簡単な仕事だが、それでも「ありがとう」「助かってます」と丁寧に声をかけてもらえた。
 技術や能力の有無に関係なく、人の労働に敬意を持つべきだと理解したのはこの頃だろう。失われていた誇りが少しずつ復活していくのを感じた。

 短時間労働でしのぎつつ体の自然回復を待つつもりだったが、仕事の負荷を減らしても大きく体力が戻る気配はなかった。このまま細々とした収入を維持しても自立はできない。
 生きていくために、体が弱っていても稼げる手段が必要だった。自分にしかない技術やセンスで、少ない労働から高い価値を生み出す手段は何か。
 自分が「やりたいこと」と「やるべきこと」、どちらもゲームの方を向いていた。今まで積み上げてきた努力と信念が、状況を一変させる可能性に賭けるしかなかった。

自分のゲームを信じる

 世話になった職場を離れ、両親を説得してゲーム作りに専念することにした。自分の中に蓄積していたアイディアを絞り込み、最もバランスのいいものを厳選して開発をスタートさせた。
 体調によって作業できる量が大きく変わり、予定通りに制作が進んだことは一度もない。ろくに進展が見えない時期は、ゴールのないマラソンを延々走っているような気分だった。
 自分で作ったAIと対戦を繰り返しながら、一つずつゲームシステムを練り込んでいく。売れるゲームを作るため、シンプルさと奥深さの両立は必須だった。壁にぶつかるたび策を捻り出しては、細かな調整を施す日々が続く。
 昔から好きだった対戦ゲームの楽しさを、どれだけ多くの人に届けられるかが課題だった。誰かが自分の作ったゲームを囲み、談笑しながら遊ぶ光景を想像しつつ、遊びやすさとゲーム性を磨いていく。

 成果は少しずつ、しかし着実に現れた。作品を掘り下げていく内に、趣味で作っていた頃とは全く違う手応えが得られるようになった。
 僕の想像を超えて多彩な攻略法が見つかり、制作中のゲームが思わぬ驚きを与えてくれる。自分で作ったものを自分で遊んでいても、明らかに楽しいゲームだと感じ取れた。コンピュータとプログラムの力で、作品が生き物になったように感じた。
 自分自身の意識も変化した。かつてはゲーム開発者を夢見つつも、本当に自分一人でやっていけるのかという不安がどこかにあった。だが開発の終着点が近づくにつれ、「面白いものを作れるはず」という漠然とした期待は「面白いものを作った」という自信に変わっていった。

 ゲーム開発に専念していた期間は、己の病気と向かい合っていた期間でもある。自分のペースで働けるようになったことで、体が何を求め、何を嫌がっているのか、徐々にわかるようになってきた。自分をいたわることの重要性をここ数年でようやく理解したように思う。
 少しずつ本来の自分を取り戻しながら、ゆっくりと積み上げてきた作業が1つの形を成した。僕の人生をつぎ込んだそれは、まるで僕の人格をそのまま反映したような、一癖あるゲームだった。

現状とこれから

 ゲームが完成した後に情報発信を始めたので、後はnoteなりツイッターなりを見てもらえば僕が何をしていたかはわかってもらえると思う。自作品に関する記事はさんざん書いてきたので、ここでは紹介ツイートだけ貼っておきたい。

 正直言ってしまうと今は宣伝に苦戦していて、自分のこだわりをプレイヤーに届ける難しさを痛感している。ゲームの中身を詳しく説明するだけではそうそう興味を持ってもらえない。触ってすぐに魅力が分かるタイプのゲームでもなく、真価がプレイヤーに伝わっていないと感じる。
 今回ゲームそのものではなく自分の経歴を語ったのは、自分が持てる価値を全て使わないと力強い情報発信にならないとnoteに教わったからだ。ゼロから自分の存在をアピールしていく今の立場に学ぶことは本当に多い。

 今は発信力を高めるため、自分の作品とあまり関係ない記事も書くようにしている。ゲーム開発者として培ってきた知識や技術を活かし、日本のゲーム文化をもっと豊かにしたいと考えているからだ。
 個人ゲーム開発者はもっとゲームデザインについて語り合うべきだと思っている。まずは自分のゲームを軸にしつつ、ゲーム関連の情報発信を続けるつもりだ。僕の発した作品や言葉が、いつか人々のゲーム観を変えていくと信じたい。

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