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壺に入った男の話

noteはお久しぶりです。
日々忙しくて特に書くこともなく、ポケモンに明け暮れていたのですが、
最近、壺男のゲームに復帰したので、
記念に書いておこうと思った次第。

ゲームの概要

壺男のゲーム。通称Getting Over Itですが、正式名称は「Getting Over It with Bennett Foddy」という。
Bennett Foddyは、ゲームの作者の名前だそうです。
PCではSteamから配信されており、比較的低スペックのマシンでも十分に遊べるゲームである。
発売は2017年。価格は定価で820円。
しかも、ことあるごとにセールが行われ、半額の410円で入手できることも多く、非常に敷居が低いゲームといえるだろう。
知名度も高く、ここ数年ではYouTuberをはじめとしたたくさんの配信者にプレイされ、いわゆる耐久配信向き、イライラ系、罰ゲーム系のタイトルとして非常に人気が高いゲームでもある。

今回、今更ですが、このゲームについて語りたいと思う。

購入までの流れ

このゲームとの出会い

私がこのゲームと出会ったのも、多分に漏れず、YouTuberの配信だった。
当時、ゲーム実況ジャンルでよく見ていた配信者がプレイし、発狂している動画を見る機会があった。
最初の印象は、チープなゲームだな。という印象。値段もチープ。グラフィックも、まぁ、安っぽい。
Flashゲームといっても信じただろう。21世紀のゲームとはとても…。と言うのが初対面の感想だった。

しかもコンセプトがとにかく謎。
プロモーションの動画を見てもらうだけでもわかるのだが、なぜか下半身が壺にはまった状態の男が、ハンマーを振り回して、山?を上っていく。というゲーム。

二度目の出会い

一度見たときはスルーしたが、後日、別の配信者もプレイしているのを見つける。
これは人気ゲームなのか?と思い、Steamのレビューを見ると、圧倒的な高評価。そしてなんだかレビューが詩的というか哲学的。
とても困惑したのを今でも覚えている。なぜ21世紀の今、このようなゲームにみんながハマるのか理解できなかった。
ただ、難しいゲームなんだな。というのは伝わった。
普段ゲームが得意な人達が、このゲームでは無様に落下し、机をたたいて悔しがる。
その様は、ある種の愉悦を感じさせるものがあったことは間違いない。
そうして私は、Getting Over Itの動画を探し求めることになっていく。

購入に至る病

壺男のゲームを好んで見るようになると、だんだんと、ある感情が首をもたげてくる。
「お前はやらないのか?」という自分自身に対する声が、自分の頭の片隅でふつふつとわいてくる。
いやいやいや。あんなイライラするゲームやって何になるよ?金と時間の無駄。
そう思えるうちはよかったのだが、あっちの配信者も、こっちの配信者も、長時間の配信に耐え、クリアして歓喜の雄たけびを上げていく。
それを見ながら、おめでとう、とつぶやく。
それでいいのか?
ゲームは小さいころから好きだが、得意といえるほどではなかった。
アクションゲームはだいたい中盤で投げ出してきたし、音ゲーに至ってはノーツがダブって見えるほど動体視力がなかった。
でも、ずっとゲームをやってきたんだろ?
いいのか?
やらないままでいいのか?
モンモンとした思いが少しずつ蓄積していた時だった。

そう。やってきたのだ。2020年、Steamのサマーセールが。
410円。ワンコイン以下。
わかったよ。やるよ。やればいいんだろ?そんな気持ちで購入を決めたのだった。

買ってから一度登頂するまで

そそり立つ壁

まぁ、配信見てたとはいってもクリアなんて簡単にできるもんではない。
最初に引っかかったのは家だった。最初の、最初、3分くらいでたどり着く場所にある岩壁に埋まった家。
そこがどうしてもクリアできず、ここで30分は費やしたと思う。
我ながらゲームスキルが低い。
今となっては、息をするより簡単な家。
それが30分間も超えられない。
私はすでに知っているのだ。その先に2個ランタンがある垂直な壁の存在を。
数多のゲームが得意な配信者が、そこで詰まって、悶絶して、感情を失っていく難所だ。
なんと、そこにすらたどり着けない。衝撃である。
自分のゲームの下手さを思い知る。
何度も何度も落下する。ここで、一つの事実にぶち当たることになる。

励まし(煽り)

Getting Over Itを、配信ではなく普通に始めるとびっくりすることがある。
このゲーム、音があるのだ。
男がハンマーを降って石やらに突き刺すSEのことではない。
開発者と思しき男の音声と、軽快な音楽だ。
このゲームの本質というにふさわしいのはこの音だと気づくのは少し先のこと。
このゲームでは、いろんな動作をトリガーに、男が流ちょうな英語で何事かをつぶやき、時としてヨーデルやカントリー調の軽快な音楽が鳴ったりする。
トリガーは、特定の場所に到達することだったり、クリックしすぎたりというものもあるが、最も多くのパターンが用意されているのが、「落ちたとき」だ。
特に、長距離を落下したとき、いろんなパターンで慰めてくれるのだ。
それは、ある種の救いではある。
偉人の失敗にまつわるエピソードや格言、時として何も語らず、心を明るくしてくれる音楽が流れる。
これで取り組んでいるのが受験や重要な仕事ならば、まだ素直に受け取れる余地はあろう。
だが、やっているのは、ただただ、壺男が山を登るゲーム。
クリアしても得る物はないとわかっているのだ。
得る物はないのに、過剰なまでに慰めてくれる。

これは、慰めではない。煽りなのだと気づくのに、多くの時間は必要ない。

煽られながらやるゲーム

はたして、プレイヤーの多くは、この慰め風煽りに耐えながら、ゲームを進めていくことになる。
このゲームは、ソシャゲのスタミナみたいなプレイを制限する要素もなければ、逆にレベル上げや資金稼ぎのような難易度が下がる要素もない。
クリアに必要なのは、時間と折れない心だけ。
心が折れない限り、無限に挑むことができるし、心が折れれば、復活するまでかなりの時間を要することになる。
私は一度、買って3日目で心が折れた。
それはもうぽっきり折れた。
その次に起動するまで、1年半という時間を要することになった。

1年半後の起動

壺男をプレイしなくなってからは、壺男の配信を見ることはなくなった。
自分に見る資格がないと思ってしまったのかもしれない。
だけど、やっぱりどこか、モヤモヤと心に引っかかり続けたのだろう。
2022年の1月、ふと、本当にふと、「あ。壺やろう」と思えたのは、お正月の陽気な空気に誘われたからだっただろうか。
1年半後のチャレンジは、意外なことに心が折れずに進めることができた。
結局、3日間をかけ、20時間を少し超えたあたりで最初の登頂を果たしたのだった。

成長の可視化

このゲームにはレベルなんてものはない。あるのはプレイヤースキルのみ。
山を一歩でも高く昇れたら、それは自分の成長。
スタート地点に戻ったとしても、最前線に復帰するまでの時間を少しでも短縮出来たら、それもまた自分の成長。
この単純なゲームの作りに気づくまで、かなりの時間を要した。
ヒントはたくさんあるのだ。
最初に上り始めて家のあたりでこのゲームの開発の経緯を作者自らが語ってくれる。
上に上がるにつれ、ゲームとは何なのか?という根源的な問いかけがなされる。
自分はなぜ、壺に入ったおじさんを操って山を登っているのか?
何度絶望を味わい、立ち上がるのか?
クリアしても、それに意味なんかあるのか?

プレイしながら自分を客観視する感覚とでもいうのか。
あがいて、絶望し、イライラしている自分を、一歩外から眺めている感覚を自覚することができるようになっていく。
だんだんと、心と感情をすり減らしていく自分を自覚しながら、やっと一度目の登頂を迎えることになる。
一度目の登頂は、楽しいという感情よりは解放感のほうを強く感じたことを覚えている。

二度目の登頂から、金壺まで

一度登頂してから二度目の登頂まで

一度目の登頂を果たした後、このゲームに対する取り組みは2パターンに分かれると思う。
「もう二度とやるか!」派と、「二度目の登頂は何時間だろう?」派だ。
私は後者だった。
私の二度目の登頂に要した時間は2時間。
1年半と20時間かかったものが、2時間。
二度目に登頂した時に、このゲームを本当に楽しいと、初めて感じたと思う。

ゲーマーの生き方のレベルが上がる瞬間

このゲームは、クリアを続けることにより、評価が上がっていくゲームなのだ。
一度目の登頂時は「早く解放されたい」という気持ちが先行し、明確には認識できないが、二度目はそういう焦りがないので、より一層自分を客観視できるようになる。
三度目、四度目と登るうちに、いわゆる難関の場所でも、時間がかかるポイントと、一発でクリアできるようになったポイントがわかってくる。
五度目、六度目、七度目…少しずつクリアに要するタイムが短くなるにつれ、次の周回に生かせることが増えていく。
すると逆に、引っかかったことにむしろ感謝の感情すら芽生えてくる。

ああ、ここをまた練習させてくれるのか。
ありがとう。
自然と感謝の感情が生まれる。
ありがとう。壺男。
今日も練習させてくれてありがとう。

そして、やがて壺ゲーマーは、仕事や私生活においても、周囲の試練を与えてくる人に、自然と「ありがとう」と言えるようになっていく。
人に感謝するという感情を思い出した自分に気づく。
心が浄化され、生き方のレベルが一段上がるのだ。

壺に入った男の話

人は、何かに感謝を覚え、心が浄化されると、他人にも広めたいという気持ちを持つものらしい。
Steamで壺男のレビューを書いている哲学者や詩人は、だいたい金壺(50回クリア)勢であることに気づく。
金壺にまで至るころには、人間として「仕上がって」くるのだ。
やがて、「仕上がった」人間は、種をまき始める。
周囲の人間に向けて、ほんの少しの悪意と、圧倒的な感謝の念を込めて、壺男をプレイしてほしくなる。

壺に入った男がハンマーを振り回して山を登るゲームの主人公と、
そのゲームを周囲に広めようとするゲーマー。
壺にどっぷりつかって抜け出せないでいるのは、どちらなのだろうか。

壺のススメ

周囲のゲーマーに壺男をプレイさせることは、さほど難しくない。
ほんの少しプライドを刺激してあげればいいのだ。

「壺男クリアした?まだ?
 ゲーマー名乗ってて、壺未クリアなのちょっとモヤってしてない?
 今、セールやってるよ」

たとえその時は一笑に付されたとしても、いつかは必ず、その種は芽を出すだろう。
次のセール、いつかなぁ?


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