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街が、消えゆくとき。

 ツイッターのタイムラインを眺めていたら、リツイートで回ってきたこの投稿が、目につきました。

 ツイ主は、こう語ります。
「文化遺産である清渓川乙支路産業団地を保存してください。ここに住宅団地(高層マンション街)って、何故ですか?!」

 清渓川と言えば、今はソウルを代表する観光スポットであり、近年の都市再開発の世界的先進事例となっている都市河川。

 今はこんな、デートスポットみたいになっていて人々が集い、憩う場所になっていますが、昔は、もっと違った意味合いのある川でした。

 ソウル、いや当時の名は漢城ですね。朝鮮王朝時代、この川は王宮や武官の屋敷そして御用商人が軒を連ねるメインストリート(鍾路)がある「北村」と、下級の官吏などが住む「南村」を隔てる川であり、都市の排水幹線的な水路であり、その岸辺は両市街の隙間的な、はっきり言えば場末的な雰囲気のある場所でもありました。
 朝鮮王朝末期に日本の影響が強くなると南村は日本人居住地として指定され、併合後は完全に日本人街として入植が進み、地名まで日本風に改められ近代化への開発が進められていきます。今、乙支路と呼ばれる街は、黄金町や林町・笠井町・水標町などと名を変えた、日本人街。そして対岸は朝鮮人街。地図を見れば、川の北の地名は現在に続く現地式の**洞、南側では日本式の**町となっているのが分かります。
 先住者の街と、入植者の街。この二つの街を隔てる排水路が、いや「両者の溝」が、清渓川でした。

 さて、そんな清渓川南側の日本人街ですが、第二次大戦での日本敗戦に伴い、このエリアから日本人が引き揚げます。そしてその後の社会的混乱や朝鮮戦争での被災・避難民の右往左往、そして漢江の奇跡と呼ばれる経済成長による人口急増で、このエリアは「生きてゆくために必死で働く」人たちの場へと、変わったのです。日本人が遺した日本式の街を、建物を、生きるために様々なものを作りだす人たちが引き継ぎ、あるいは住み着き…。その結果、ちょっとした加工から新聞印刷まで行うような本格的な工場まで、様々な「こうば」が出来、それに伴う様々な「材料屋・部品屋」がそこに生まれ、集まり…。そして人が集まれば、食べて呑む店も現れ、増え、そうしてここは、戦後ソウルの発展を下支えする街に、なってゆきました。街の名前も日本式から朝鮮式に改められ、メインストリートの黄金町通は乙支路と新しく命名され、周辺もそう呼ばれるようになり今に至ります。

 乙支路は、はたらく街。今もそんな印象が強い、雑多ながらも活気のある、ソウルという都市のパワーを感じられるエキゾチックな街の、代表格とも言える場所です。
 しかしここは、元日本人街。日本の都市によくある雑多かつ狭い路地でつながる市街地は、戦後の再興の経緯もあってそのまま残り、建物や街路も大きな更新がないまま、今に至ります。

 老朽化した建物、古びた機械たち、その間を縫う、細い路地。
 街の一部は、ちょっと、寂れてしまいました。

 しかし今も、はたらく街は、健在です。1万を超える店や工場が現在も営業し、5万人がここで生計を立てている「生きている街」、なのです。

 働く街は、少し、くたびれ気味。
 しかしそこに居る人たちは、明るく食べ、呑み、また明日も、働きます。

 日本人が作った近代市街地を、韓国人が引き継ぎ、今へとつないできた、この街。近代化から現在までの歴史が、働く人たちの息吹が、ここに詰まっています。
 そんな「働く人の街」に、近年は町工場という特性を活かしてクリエイターが創作物の製造を依頼したり、空店舗・工場をセレクトショップやギャラリーなどに使うような動きが、出てきました。

 繁華街に近いのに賃料は安く、確かな技術を持った職人や少数生産でも請け負ってくれる工場が身近にあるという乙支路は、クリエイターや何か面白いコト・変わったコトをしたい人には絶好の場所でも、あるのです。

 そんな動きが出始めた矢先に、再開発が、動き出しました。
 この動きを支えるものではなく、潰すような形で。

 その再開発は、どうやら以前から乱暴かつ画一的だと批判の多かった「エリア全体を大規模高層建築群に建て替えて土地柄をも一新」という、ソウル市の従来型スタイルのようです。イメージ図には下層階に商業スペースのようなものが見受けられますが、少なくとも「今の町工場」が、残れるような空間では無さそう。
「60年(築いてきた)基盤から追い出される商人『これがソウル市の都市再生か』」という記事タイトルからも、その手法への怒りが、見えます。

 近代化以降の、激動の時代。翻弄されつつも、逞しく「生まれ変わって」60年。乙支路の街は、その歴史を全て、破壊されてしまうのかも知れません。

 懐かしくも、逞しく生きてきた乙支路の街。その60年の歴史は、その前に遡る日本統治時代から「引き継いだ」もので、場合によっては百年モノもあるやも知れず、さすがに、更新は必要です。

 しかし、今ここで行われようとしているのは、この街の歴史や特性を理解したうえでの事業ではなく、都市運営での効率と事業収益を最優先した「従来型」の「乱暴な」再開発のようです。

 戦後ソウルの苦難を乗り越え、盛り立てた庶民の、炎のような息吹。それが、少しずつ小さくなってきたかな…という時に吹き込んできた、若い風。それに煽られて、くすぶりかけたいた炎が再び勢いを取り戻すかと思われた矢先の、まさかの「消火」。それが、とても残念なのです。

 ソウル市の現体制及び朴元淳市長は都市運営のテーマを「都市を人間に優先させた10年から、人間のために都市を作り変える10年へ。」と改め、「共に作り共に享受するソウル」を目指した各種施策を繰り出しています。その中で、この再開発事業は、どう位置付けられていたのでしょうか…。

 そして、朴元淳体制のソウル市が打ち出している、この方針。

 この南村には、清渓川沿いの雑多な、観光地として「映えない」場所など、関係ないということなのでしょうか。

 乙支路こそ「今のソウル」を支え続けた、生き証人的な街なのに…


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