見出し画像

世界に出るということ

僕は幼少期、正確には1歳から8歳までをアメリカ合衆国で過ごした。

当時の住まいはマンハッタンの対岸、ニュージャージー州フォート・リー。
NYCからジョージ・ワシントン・ブリッジを渡ってすぐのところだ。

現地ではアジア、特に日本人ということでなかなか陰湿な差別にもあったし
日本に帰国したらしたで外国人扱いを受けた。子供とは残酷なものである。
帰国当初は日本語に自信がなく、コミュニケーションをとれない日が続く。
幼いながらに語学力の大切さを痛感した日々は今でも僕のベースである。

アメリカで習得した(というより生活するのに必要だった)英語力は
ソムリエとして仕事をするうえで想像以上のメリットを与えてくれた。

ソムリエになりたての頃はやはりフランスワインへのあこがれが強く、
片言のフランス語で現地の生産者を訪ねたりしていたのだが
あるとき英語での会話がとてもスムーズにできるフランス人生産者と会い
時代の変化を強く感じることとなった。

現在ではほぼ全ての国の生産者が英語を話し、容易に意思疎通が取れる。
料理人の世界も同様で料理を学ぶためにフランスやイタリアに行くべき、と
教えられたのは前時代的な話で現在ではスペインやデンマーク、ベルギーに
アメリカやイギリス、アジアにまでファインダイニングは進出しており、
キッチンやダイニングで飛び交う言語はフランス語ではなく英語である。

日本の英語教育を考えてみると、自分の時代では義務教育の中学3年間、
義務教育ではないが当時からかなり多くの人が通う高等学校で3年間。
ほとんどの人が少なくとも6年間は英語教育を受けてきたことになる。
にもかかわらず、僕の周りで「自分は英語ができる」という人はわずかだ。

これは日本人の悪い意味での完璧主義が災いしてるのだろうと思う。
日本人にとって「できる」とは「完璧にできる」ということであり、
文法や単語力においてそうでない場合、「できない」ことになるらしい。

そもそも英語をはじめとする言語というものは
他者とコミュニケーションをとるためのツールに過ぎないのに
日本人は深く考えすぎて口に出すことをためらう傾向にある。
言いたいことを言えばいい。間違えたっていい。

経験上、海外の人の方が注意深く話を聞いてくれる。
言い方を間違えたり単語に詰まったら助け舟だって出してくれる。
真剣に何かを伝えようとすれば聞き手も真剣になる。
これこそがコミュニケーションの醍醐味なのに日本人はシャイすぎる。

若い世代の皆さんにはドンドン海外に出てドンドン喋り倒してほしい。

さて、ワインである。
今回のテーマを決めたとき、頭に降りてきたワインがある。
グレープ・リパブリックのヴィーノ・ロッソ・ネイキッドNo.4。
山形県南陽市に産声を上げたばかりのワイナリーのワインだ。

ロッソと呼ぶにはいささか淡い色合い。
豊かでチャーミングな果実味とピュアな飲み心地。
良い意味でアルコールを感じず、気が付けばグビグビ飲んでる。

国産やナチュラルワインというカテゴリーの枠すら軽く超えて
世界のマーケットを視野に入れた、まさに現代的なワイナリー。

言語ではなく自身のワインというツールをもって
海外の生産者やソムリエ、顧客とコミュニケーションを図るという
これまであまりなかったスタイルのワイナリーだと思う。

世界に出るということ。
それはとにかくやってみること。声に出すこと。
恥ずかしがってる場合じゃない。


気に入っていただけたらサポートいう名の投げ銭をお願いします。テンション上がって更新頻度が上がると思われます。