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最近の気付き

先日、
アメリカからいらっしゃるバクティ・ヨーガの精神指導者である
サッチャデーヴァ先生と奥さまのマハグナさんに会いに
奥多摩へ1泊2日のリトリートへ参加した。

そこでね、大きな大きな気付きがあった!

たくさんの方々と交流して
ほぼはじめましてな方々と温泉につかったり
一緒にごはんを食べたり

人見知りな私にとっては
なるべく自然にしていよう〜と
(そのほうがまわりの人も気を使わないだろうし!)
そう思いながらも内心ドッキドキな時間を過ごした。

ひと晩泊まって、翌日。

マンガラアラティ(朝のお祈り)のキールタンをサッチャ先生がしてくださった。

なんだか分からないけれど涙がワラワラ出て、

泣きながらも身体は踊ってるというふしぎな感じ。笑

そしてその後のサッチャ先生のお話
すっごく要約すると
「神に愛されるのに、努力はなにひとついらない」
「そのままのあなたを神はすでに充分に愛している」

そのお話を聞きながらも、涙が滝のよう。

そして、気付いた。

私は、「私のことを受け入れてもらえないのでは」という恐れがある。

それは中学や高校で仲良しのグループのなかでだいたい自分だけうまくその仲良し感に入ってゆけない感じがあった。

気付くと自分をのぞいた仲良しグループで遊んでたり
その子達が密に仲良くなってゆくのを
作り笑顔をはっつけながらただ見ていた。

だから、
「私と話すより他の方と話したいのでは」と
話しかけられても
すぐに話をきりあげその人に話をふったり
自分からはフランクに話しかけられなかったりする。

さらに気付いたのが
「私の話は聞いてもらえない」という感覚だった。

これもあまりに無意識すぎて
気付いたとき震えた。笑

思い当たるのは母親との関係だ。

自分の話を聞いてもらったこともあるんだろうけど

マシンガントークで話したいだけ話し、私の相づちやコメントには全く耳を傾けない母親(笑)

なにか話しても
「ふーん…それで(別の話)」

大人になってから「ほんっと、人の話聞かないよね!」と
笑いながら呆れて言ったことあるけど

これ、かなーり小さい頃からそうだったんだろな?と思うと

うん、書きながら怒りが若干こみあげる。笑

でね、人との関係のベースが
「私は受け入れてもらえないのでは?」
「私の話なんて聞いてもらえないのでは」
という根深ーい
「恐れ」がベースにある。

なので、
はじめて会ったりした人には特に
自分のハートが勝手に閉じている。

仲良くなってからも、
あまり深入りしないようにしよう。という
(そうすると迷惑かもしれないから)
キモチがある。
かなり無意識に、ある。

特に人気者?やたーくさんの人と交流されてるような人には
ますます
私に時間を割いてもらうのは申し訳なさすぎ
と感じて
あまり関わらないようにしてしまう。

気付いて、だいぶ楽になった。

気づいて、ああ、これもう手放したいって思った。

気付いたからといって
すぐにその思い込みを手放せるわけではない。

またすぐ、同じような反応をしている自分に気付く。

もう、これを手放したいです。
どうか、手放させてください。

最近はそう祈りながらチャンティングをしている。

そう、自力でなんて、無理なのだ。
これもサッチャ先生から教わった。

無意識でいたとき、わたしは
「その状態がいい」と思っていたんだ、無意識に。

その状態がいい、というか、
手放したいと望んでなかった、のね。

クリシュナは私達の自由意志を奪わない。

だから、私達が苦しくても
そのままでいたい
その観念を手放したくないなら
その望みを叶えてくれる。

でも
もういやだ、って助けてくださいって望めば

必ず助けてくださる。

いつも、ハートを開いていたい。
ハートを開いて交流している人達をみて
いいなぁって
羨ましくなる自分のキモチも苦しい。

だから、手放したい。

この気付きが、
私を
明るく軽やかなところへ連れていってくれるような気がしている。


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