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【リトリート@屋久島】「つながる」という言葉が消えた日


「つながる」という言葉を、私はよく使う。
自然と繋がる、人と繋がる、ことが好きで、
みんなとの繋がりなしでは、今の私は絶対になかったと確信して言える。

ただなぜがこの「つながる」という言葉自体は、どうも宙に浮いているというか、浮世離れしているように感じていた。


そんな違和感を抱えつつ、抱えていることすら忘れつつ、
先日、居候先のご夫婦に勧められ、「屋久島つながるリトリート」という合宿に参加した。正直、面食らうほど心が震えることも学ぶことも多く、たくさんの嘆きと祝いの涙を流した。

それに関したもおいおい言葉に記していくとして、今日はタイトルにもある”つながる”という言葉に着目したい。

合宿の中でNVCというコミュニケーション手法を学んだ時、やっとこの違和感の正体を見つけることができたのだ。

NVC(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)とは、コミュニケーションにおいて相手とのつながりを持ち続けながら、お互いのニーズが満たされるまで話し合いを続けていくという、共感を持って臨むコミュニケーションの方法



線としての「つながる」

これまで私が思っていた「つながる」は、ある点と点をつなぐ線のようなものだった。
だからどちらかが先に繋がろうとする意思や行動を示さないと繋がることが始まらないように感じられた。
その繋がろうとしないと、繋がるために力が働かないと、繋がれない状態が気持ち悪かったのだ。


”つながる”の再構築

そして、私が求めていた”つながり”は、
”目に見えようが見えまいが、そこに必ず巡っているようなもの”だった。


この宇宙は一つの生命体で、自己も他者も生命体の一つの細胞のようなもので、細胞同士は無意識的に作用しあって生命の全体性を保っている。

自己と他者は独立し、多種多様であると同時に、一つの生命体でもある。
だから、身体の一部である私が傷つけば、当然身体全体も痛みを感じるし、その逆も然り。

それを他者論でいうと、他者は自己でもあり他者でもあるということ。


繋がることが当たり前。私たちは繋がりの中で生きている。
繋がるからこそ自己があり、自己があるからこそ繋がっている。

だから、もはや「つながる」って言葉すらいらないんじゃないかと思うのわけです。


仏教でいうと自他一体?
キリスト教でいうと隣人愛?
今まで頭では分かっていたけど、やっとその言葉が自分の腹に落とし込まれた気がする。

そしてその状態を実世界でわかりやすく表現したら”つながる”という言葉になるじゃないかな、って。


なんだか納豆のねばねばみたいだね!(うるさい)

というわけで、これから私は再構築された「つながる」という言葉を胸を張って使っていこうと思うのでした。



おわり!





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