天理人文_2018年6月20日

グローバル規模の地方創生。「野生の思考」に学ぶ、日本人らしい生き方とは。

皆さん、こんにちは。久保家です。

久保家のリビングにはホワイトボードがありまして、毎朝、そこに夫が考えたことを描いて、朝ごはんを食べながら夫婦でディスカッションをしているのですが、その内容をコンテンツとしてまとめてみようというのが、今回の試みです。

○野生の思考とは?

本日のテーマは、「科学的思考と野生の思考」です。20世紀のフランスの文化人類学者、民族学者にレヴィ=ストロースという偉い学者さんがいまして、その代表作が「野生の思考」という本なんですね。

現在人が西欧文明を絶対視していた時代に、「構造主義」という新しい方法を使って、アマゾン川流域に住む先住民族たちのような未開社会にも、文明社会に匹敵する精緻で論理的な思考があることを発見したのですね。彼はそれを「野生の思考」と呼びました。天才のなせる技です。

妻がたまたま買ってきたNHKオンラインの100分 de 名著 「名著60 野生の思考」を横から読みまして、「これはおもしろい!」と感激しました。原著にも挑戦しましたが、無学な夫には、さっぱりわからない(笑)

でも、100分 de 名著に、そのエッセンスは詰まっているから、8割くらいまでなら、割と簡単に理解できる。本当は、理解できた「つもり」かもしれませんが、人生が豊かになる。ですから、「野生の思考」は神棚に祀ることにして、そのエッセンスに集中しようというわけです。

同時代に「実存は本質に先立つ」で有名な実存主義のサルトルがいまして、この人とレヴィ=ストロースの仲が悪かったらしいんですね(笑)サルトルの言っていることはおかしい、私がそれを証明してみせると言って(言ったかどうかわかりませんが)、アマゾンの奥まで飛んでいって研究を始めるわけです。恐るべき行動力です。グローバル規模の地方創生(笑)弁証法的アプローチも、ここまでいけば壮大なドラマですね。

アマゾンに降り立ったレヴィ=ストロースは、そこで先住民たちの習俗や儀礼、神話の数々が決して野蛮で未熟なものではなく、極めて精緻で論理的な思考に基づいていることを発見します。そこには、想像もしなかった豊かな世界があったのですね。

○構造主義と記号論

ここで、構造主義を発見する前段に、友人のヤコブソンに言語学を学んでいた話が登場します。彼は、そこで、あらゆる現象を言語学的構造から解明する「構造主義」という方法を手にしていたわけです。つまり、先に仮説があって、それを検証するためにアマゾンまで飛んだわけです。彼自身は、科学的な仮説検証のアプローチを実践したですね。

さらに、未開民族の思考を「前論理的」だとする見方は、西洋近代の「科学」にのみ至上権を置く立場からの「偏見」でしかない、「野生の思考」こそ、科学的な思考よりも根源にある人類に普遍的な思考だと結論づけるのです。つまり、「野生の思考」が一般で、「科学的思考」が特殊であると考えるわけです。特殊相対性理論に対する、一般相対性理論のような考えですね。

「一般」と「特殊」に分けて考えるのは、数学的の「集合論」の考え方です。数学では、直線は曲線の特殊な場合、定数は変数の特殊な場合と考えます。集合論のエッセンスは、変化しないは、変化するの特殊なケースと考えるのです。

夫の時代には、集合論は大学数学の登竜門でした。最近は、高校数学の教科書で集合論を学びます。作家の佐藤優さんに影響を受けて、チャート式数学を読んでみたら、数学I+Aで集合論の話が出てきました。数学の「オペレーション」が原因で数学嫌いになる方が多いですが、本当に大切なのは、数学の「論理」です。指導する側が、そのことをしっかり伝えてほしいと思います。

○科学的思考と野生の思考

さて、ホワイトボードに「科学的思考」と「野生の思考」の比較表を作成してみました。

近代の科学的思考の本質は、「モデリング」にあります。正確で、かつ、抽象的な概念をつくることです。それをつくるために必要な道具が数学です。数学とは「確かさ」です。

ニュートンの時代であれば、森羅万象を説明する真理を追求することができたのかもしれませんが、現在社会は複雑化の時代です。エントロピーの高まった現在社会において、森羅万象を説明することは科学の領域ではありません。近代科学は、モデルをつくり、小さな差異を見つける時代なのです。

日本の偉大な数学者である岡潔は、数学が抽象的になったと言います。数学が抽象的になるということは、確かさが不明瞭になるということです。科学に必要な道具のほうが、不明瞭になってきた。産業革命以降、科学的思考で発展してきた西欧が衰退しているのは、近代社会が臨界点に達しているからです。

そのことに気づいたレヴィ=ストロースは、フィールドワークを通じて「野生の思考」を発見しました。記号を道具にすることで、あらゆる現象を構造から解明しようとするわけです。

○ブリコラージュは、具体的かつ本質的

「ブリコラージュ(Bricolage)」とは、寄せ集めでなにかを造ったり、何かを修繕するという意味です。「繕う」「ごまかす」を意味する、フランス語の動詞 「ブリコルール(Bricoler)」 に由来します。日曜大工という意味でも使われます。理論や設計図に基づいて物を作る「エンジニアリング」ではなく、その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながらつくる点がポイントです。

ホワイトボードを見てください。ブリコラージュは具体的で、ゆらぎ・ずれを含んでいるところに、何か人間的な魅力を感じますね。人類学者の中沢新一さんは、この「野生の思考」が現代にあって、科学的思考と共存しながら、日常世界の中で作動し続けているといいます。例えば、壊れやすいが粘り強いインターネットは、科学的思考の産物というよりも、むしろ「野生の思考」に近いのではないでしょうか。

西欧近代の科学や合理性に呪縛され、自然と文化の間を厳しく分離する思考法に慣らされてしまった日本人ですが、自然と文化のインターフェイス上に働いているとされる「野性の思考」を復権することで、社会のあり方や文明のあり方を見つめなおすができるかもしれません。秩序と自由、集中と分散、同一性と差異性。そのような二面性のある考え方、主客未分な考え方は、日本人の得意とするところではないでしょうか。

この天理人文の記事も、ブリコラージュの一つと考えています。いままでは、ホワイトボードにモデリングするだけで満足していたのですが、もう一歩進めて、言語化することを徹底してみようと思ったわけです。記号化するには、エネルギーが必要です。文字にすることは、苦難を伴います。そして、困難だからこそ挑戦する価値がある。

○抽象化しすぎてはならない

夫は、ドストエフスキーの「人間は苦悩を愛する」という言葉が好きです。キリスト教徒ではありませんが、プロテスタント神学の、苦難を経由して自由を獲得するという弁証法に共感するものがあります。「人間の本質は苦にある」と考える、仏教の教えに通じるところがあるからでしょう。

突き詰めると苦になる。そして、苦と楽が共存する空になる。それは解なしと同義です。人生は突き詰めてはいけないと思う。語りえぬものについては沈黙しなければならない。

抽象化しすぎると、まるで冬の景色のような真っ白な世界になると思うのです。それは素敵なことなのかもしれませんが、人間が住むには適しません。やはり、春のような暖かさ、秋のような豊かさがほしくなるのだと夫は感じるのです。

以上が、朝の勉強会の夫の意見でした。皆さん(妻)は、どう思われますか?

○おすすめ本

『野生の思考』 2016年12月 (100分 de 名著)
中沢 新一 (著)
ムック: 116ページ
出版社: NHK出版 (2016/11/26)
発売日: 2016/11/26
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