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僕の見た宇宙 ~映画『グリッドマン ユニバース』感想~

2023年3月24日に公開された映画『グリッドマン ユニバース』の感想とか見てて思ったこと・考えたことをつらつらと書いていきます。
書いてることはあくまでも筆者が勝手に思ってるだけのことであり、断定的な言い回しであっても後ろには「だと思う」とか「なのかもしれない」とかが付いてるもんだと思ってください。

※映画本編及びアニメ・特撮等グリッドマン関連作品のネタバレを含みます。


はじめに

『SSSS.GRIDMAN』は、元々ウルトラシリーズが好きなことや『電光超人グリッドマン』の存在や大まかな設定を知っていた(流石に本編を見たことはなかったが……)こともあってめちゃくちゃ楽しめた。誇張抜きで10週以上見ている。超カッコいいティザービジュアルは未だにスマホの壁紙にしているし、毎週Twitterで実況や考察が飛び交ってい、まさしく幼き日のヒーロー番組と同じように、TV放送を楽しみにしていたあの日々は忘れられない。あれがもう5年前ってマジ???

続く『SSSS.DYNAZENON』は「30年近く前の特撮ドラマの1話をひたすらに発展させ、1クール分のロボットアニメを作り上げる」という離れ業をやってのけた。改めて文字にするとマジで滅茶苦茶だなこの企画……
前作で評価の高かった迫力あるバトルや独特の空気感を受け継ぎつつ、全員が戦いにしっかり関わったり世界観をわかりやすくしたりと改善された部分も多々見られた。
変形と合体、パイロット同士の関係性の変化とロボットアニメの醍醐味もたっぷりでグリッドマンとはまた違ったテイストの面白さがあった。

何が言いたいのかというと、筆者はグリッドマンもダイナゼノンも大好きだということです。

そんなオタクが見た『グリッドマン ユニバース』。
マジでめちゃくちゃ面白かった。100点満点中120万点です。作ってくれてありがとう。

客演映画を見に行ったらビッグバンが起きた

いや~、ほんとに凄かった。前作・前々作が好きであるがゆえに滅茶苦茶上がってたハードルが初日舞台挨拶で更に上げられたのに、それを軽々と跨いでいったんだから。
お祭り映画の王道を行く熱さと『SSSS.』シリーズらしい少し捻った世界観と驚きの展開、そして『電光超人』やその他円谷プロ作品の小ネタやオマージュ。それらが上手く両立され、「なんか難しいこと言ってるけどとにかく熱いからわかんなくても構わねぇ!考えるな感じろ!」という見方もできれば、「よくよく見ると結構深い話してんなぁ、細かいネタも多いんだなぁ」という見方もできる。『GRIDMAN』放映時にキャスト陣が「見るたびに新しい発見がある」と何度も言っていたが、『ユニバース』もまさしくそれだ。筆者は現在5バース目だが、まだ見逃している要素があるんじゃないかと思っている。6バース目行くかぁ……

この映画は、ドムギラン戦を境として前半と後半に分けられる。後半の「実は前半の世界で起きていた異常や出現した怪獣の原因はグリッドマンでした!」というのは結構などんでん返しで、「客演映画・お祭り映画として期待されていたことをキッチリこなす前半」と「予想外の展開とサプライズの連続で驚きっぱなしの後半」でメリハリを作っていた。戦闘面においても、ディモルガン・ドムギランはTVシリーズで登場した形態だけで、マッドオリジンは逆に劇場版初出の形態だけで倒す、と前半/後半の構造が反映されている。アレクシスの色を変え、二代目にまで戦闘形態を作る徹底ぶり。怪獣少女の巨大化できる設定なんて完全に忘れてたわ!!!

物語上も、前半は「グリッドマンの記憶=既に知っているものしか出せない」、後半は「マッドオリジン撃破のためには新しい力が必要」と、しっかり理由付けされていたのも好印象。
まさしく「期待を裏切らず、予想を裏切る」というヤツだ。おかげで色んな興奮をずっと味わえる、飽きの来ない作品になっている。

正直この2作のキャラが掛け合いして、グリッドマンとダイナゼノンとかフルパワーグリッドマンとカイゼルグリッドナイトとかで共闘して、最後はグリッドマン同盟・ガウマ隊で力を合わせてラスボスを倒してくれれば十分満足できるんですよ。見に行った人は大体そうだったんじゃないかと勝手に思っている。

でも、そうはしなかった。それだけで終わらせなかった、と言った方が正しいかな。一応上で書いた「期待してたこと」は一通りやってくれてるし。『SSSS.GRIDMAN』と『SSSS.DYNAZENON』のクロスオーバーを見に行ったら、今までグリッドマンが関わってきた物語全てを包括するとんでもない規模の話が出てきた。
グリッドマンが宇宙になるなんて予想できた人いるんか?

「挑戦する姿勢」のグリッドマンらしさ

正直言って中盤の「グリッドマンユニバース」周りの設定はだいぶややこしかった。初見だと理解しきれず、一度自分なりに整理して、2回目を見てようやく把握できた。
2作品のクロスオーバーをやるだけならここまで大風呂敷を広げる必要は全くないんだけど、それでも「グリッドマンユニバース」っていう概念をブチ上げて、細々したメディアミックス展開も含めた「グリッドマンの関わってきたものすべてを内包する宇宙」を創ったわけで。内海も映画内で言ってたけど、マルチバース展開はウルトラシリーズとかMCUとかのヒーローコンテンツでは結構当たり前になりつつあるが、本人が宇宙になることでマルチバースを形成したヒーローはちょっと思いつかない。宇宙と一体化した爺さんは知ってるけど。

GET OVER PAIN!! GET OVER MIND!!


『ユニバース』は全体的に「グリッドマンとは何なのか?」を突き詰めている印象がある。借り物の名前と姿で、誰かの力を借りないと戦うことができない。実体化も巨大化も単体ではできないし、したところで大して強くもない。でもいざとなれば、仲間と合体するわ修復光線も出すわでやりたい放題。作中で「グリッドマンを構成する要素」はかなりしっかり拾われていたように思う。
で、そんな「グリッドマンを構成する要素」の中には「チャレンジ精神」もあったんじゃないかな、なんて思ったり。

『GRIDMAN』は(当時)25年前の作品の続編だったし、『DYNAZENON』は冒頭でも書いたけどそんな大昔の作品の、なんてことはない1話の拡大。どっちもかなりチャレンジングな作品ではあるけど、そもそも『電光超人グリッドマン』がめちゃくちゃチャレンジングな作品だよね。インターネット世界を舞台にした作品だと代表的なのは『ロックマンエグゼ』かなーと勝手に思っているんだけど、『エグゼ』は2001年の作品。その8年も前、「インターネット」っていう言葉が普及する前に、ネット世界・コンピューターワールドを舞台に戦うヒーローを作っていたわけで。「早すぎた名作」と呼ばれるのも納得がいく。

30周年おめでとう

『ユニバース』での、ある種過剰なまでの世界の拡大はそんなチャレンジ精神の現れなんじゃないかなーと思っている。だからこそ、「置きに行った」映画にはならなかった。無難にウケ狙うなら普通の客演映画やれば問題ないしね。ウルトラシリーズにしろMCUにしろ『スパイダーバース』にしろ、多くのマルチバースは長いこと続けてたら自ずと広がっていた宇宙。対してグリッドマンは、自分から(厳密に言うとマッドオリジンのせいだけど)宇宙を拡大することで、既存の「マルチバース」という概念ではなく「グリッドマンユニバース」という全く新しい宇宙を作り、クロスオーバー展開を無理矢理できるようにした。グリッドマンも30年やってるじゃないかって?そのうち20年以上空白期間じゃん……

思い残しと告白

『ユニバース』で制作陣がやりたかったことの一つが「思い残しの解消」なのは間違いない。スタートからしてグリッドマンの裕太に対する負い目だし、内海と六花はそれぞれグリッドマン/アカネを引きずって台本に書こうとしてるし、裕太は六花と距離が縮まったのはいいものの、その間の記憶はなく、六花とやり取りしていたのはグリッドマンだった。そのせいで、告白して良いものか悩んでいる。
ガウマ隊はガウマ隊で、ガウマとの別れ方に納得できていなかったし、ガウマも未だにひめに対する想いを引きずっている。みんな後悔を抱えながら生きてるんすね~。

後悔って要するに「過去に囚われている」状態なわけで、それが残っていてはちゃんと未来を見て歩くことはできない。登場人物的には人生の次のステップに進めない。一応裕太は告白しようとしている=未来に進もうとする意思はあるんだけども。そんな裕太が六花を「今度やる演劇」に誘っても拒まれ、内海が「過去のヒーローショーのDVD」を見てるあたりからもかなり過去に囚われている感がある。

だからこそ裕太は、再びグリッドマンと一体化して「裕太の物語」が生まれるまでは告白できなかった=六花との関係を進展させることができなかった。公園のシーンとか六花明らかに告白待ちしてたでしょ。邪魔が入って告白できなかったのも必然なわけですね。
六花はアカネと言葉は交わさなかったものの、『ユニバース』での出来事を通じてアカネに対する気持ちの整理がついたように見えた。肩トコトコ前と後で明らかに様子違ってたし、ちゃんと「アカネが見てくれている事」「六花のお願いを守ってくれている事」を感じて吹っ切れたんじゃいかな。
この二人がそれぞれの思い残しを解消して、ようやくくっついたカタルシスよ……!おめでとう………おめでとう…………!

内海も劇でグリッドマン役を演じることでちゃっかり思い残しを解消していたし、ガウマはガウマ隊とちゃんとお別れして、ひめとの再会を通して「5000年前の怪獣使い・ガウマ」としてのやり残しを全て解消して「新世紀中学生のレックス」として新たな人生を歩んでいく。
そしてグリッドマンは、裕太に対して抱いていた後ろめたさを解決し、新たな姿「Universe Fighter」と更なる合体形態「ローグカイゼルグリッドマン」を獲得する。
綺麗にみんな「やり残し」を解消して、新しい人生を歩みはじめて、この映画は幕を閉じた。
『DYNAZENON』組はこの辺りを本編でキッチリやってしまっているのでやや描写が少ないわけだが、過去と向き合い、乗り越えて成長したガウマ隊が『GRIDMAN』世界を訪れることで、同じような成長がグリッドマン同盟に、ひいてはグリッドマン本人に起きたのは造りとしてめちゃくちゃ綺麗だよね。

この後悔って多分制作陣にもあって、だからこそグリッドマン+ダイナゼノンの合体とか、フルパワーグリッドナイトとか、アニメでできなかった合体パターンをしっかりやってくれるし、描き切れなかった新世紀中学生の戦闘シーンもちょっと尺とって描写してくれている。視聴者的には「見たかったシーン」で、制作陣としては「やりたかったけど諸々の事情でできなかったシーン」。制作陣がそれを解消するならそりゃあ視聴者も満足しますよ。

では、制作陣が「後悔を解消し、新たな人生を歩む」というのはどういうことか。グリッドマンから離れて新しい作品を作る?その可能性もあるとは思う。
でも、離れるならなぜこの映画で「グリッドマンユニバース」という新しい宇宙をわざわざ作ったのか。別にこれで終わりにするんなら世界を広げる必要は一切ない。むしろ既存の世界の中の話にした方が綺麗にまとまる。

まだまだ「グリッドマンユニバース」で全く新しい作品を作ってくれるんですよね????????期待してます。

現実VS虚構

『SSSS.GRIDMAN』では、新庄アカネが辛い現実から逃げて自分だけの世界を創り、そして自分の創った友達に助けられて再び現実と向き合うまでの物語が描かれた。
「虚構に逃げず、現実に向き合う」というテーマはエヴァを思わせる。実際意識はしてたらしいしね。あとユアストーリー
でも『GRIDMAN』での描かれ方は「虚構は立ち向かうあなたを応援するよ」というもの。実際、アニメや漫画をきっかけに他人と友達になることもあるし、勇気を貰って新しいことに挑戦できるようになることもある。虚構を逃げ道じゃなく、精神的な支えになる大事なものとして描いたことは、アニメを見ることがオタク趣味でなく当たり前になった現代にマッチしていたし、エヴァへのアンサーとして凄く綺麗だったと思う。

そもそも実写特撮ヒーローは「現実と虚構の間」にあるような存在ではある。中でもグリッドマンは、コンピューターワールドという身近かつ目に見えない場所で戦っているということもあり、他のヒーローにはない妙な「実在してるかも感」がある。(「ウルトラマンはいないのわかってたけどグリッドマンはワンチャンいるかもと思ってた」みたいな内容のインタビューを読んだ記憶があるんだけど、どこで読んだのかサッパリ覚えていない……)
そういうことも踏まえると、『GRIDMAN』が現実と虚構の関係性の話になったのも納得感がある。

『GRIDMAN』で描かれた「虚構が力をくれる」流れは『ユニバース』でも意識して描かれていたように感じる。二代目の語った「人間は虚構を信じることができる唯一の生物であり、虚構を通して進化してきた」という話はそのまんまこれだし、グリッドマンがローグカイゼルグリッドマンへと合体するのも『SSSS.DYNAZENON』という、グリッドマンから生まれた「虚構」がグリッドマンに立ち向かうための力を貸してくれている構図になる。
「全部、グリッドマンの力に!」
は熱すぎて泣いた。

合体シーン熱すぎて何回見ても泣く

しかも今度は、アカネが六花たちを助けに来てくれた!創造主としてではなく友達として参戦し、好き放題に暴れ回る様子は爽快だったし、とにかく頼もしかった。
もちろん現実=作り手や受け取り手がなければ、虚構=作品は生まれない。でもその関係は「現実>虚構」という一方的なものじゃなく、お互いに影響しあっている。かつて虚構に救われ、虚構に支えられながら成長したアカネが、今度は虚構の世界を救うというのも、虚構と現実は相互に作用しあい、支えあっていることを表しているように思えた。

パンフレットにも「学生時代に『GRIDMAN』を見ていたというスタッフが『ユニバース』の制作に関わっている」みたいな内容が書いていた。そんな風に虚構に影響を受けた人が、また新たな虚構を生み出し、別の誰かに影響を与えていくのが現代の「現実と虚構」の在り方なのかなぁと思う。

コンテンツの私物化と創作

ラスボス・マッドオリジンのモチーフは「コンテンツを私物化する雨宮哲監督」であることがパンフレットで語られている。好き勝手している自分を怪獣にして倒してもらい、グリッドマンをみんなに返そうということらしい。
確かに、今の世間だとグリッドマンと言えば「TRIGGER制作、雨宮哲監督のアニメ」だよね。それに、放映終了後のイベントで制作された、雨宮監督の書いたボイスドラマもかなりやりすぎというか、悪ふざけが過ぎているんじゃないかという内容もあった。その最たる例が、CV:稲田徹氏の「六花パパ」だと個人的には思っていたりもする。まさか回収されるとは………

確かに『SSSS.』2作品はウケたが、数多作られたスピンオフ作品やコラボはそこまで話題になっていたイメージがない。マジで色々やってたんだけどなぁ。『戦国グリッドマン』とかは、字面が異様すぎて発表時は話題になってたんだけど。
かくいう自分も、そのへんの展開はほとんど追えていない。(というか全部追えてる人いるんか?)ノベライズは買ったし、コラボだとシンフォギアとアズレンは触ったけども。裕太がグリッドマンの意識を探しに行くシーンで「ああ、色々展開してたなぁ」と思い出したくらいだ。

私物化したくない、という意図のひとつがこの外部展開に対するものだと思う。色んな人が素敵なグリッドマン創ってるよ!見て!というメッセージ。かつ、描写的に「グリッドマンユニバース」には外部展開での話もひとつの宇宙として独立して存在しているっぽいので、設定的に無理があるコラボや矛盾のあるスピンオフの存在の解決手段でもあるのかな。あらゆるグリッドマン関連作品を内包する「グリッドマンユニバース」が生まれたことで、過去の取っ散らかった展開が整理され、これからの展開も「なんでもあり」になったわけだ。

もうひとつ感じた意図は「コンテンツの衰退の回避」だ。冒頭、裕太が同じ紙に何度もグリッドマンを描くシーン。書いては消してを繰り返した結果、紙は破れてしまう。この出来事がラスボス・マッドオリジンの撃破の鍵となるわけだが、これ「同じ人が同じコンテンツを作り続けた結果、そのコンテンツが衰退していき最後には消滅してしまう」ことも表してたんじゃなかろうか。
よくキャスト陣(というか裕太役の広瀬裕也氏と六花役の宮本侑芽氏)は雨宮監督を「天才」と呼んでいた。確かに『GRIDMAN』『DYNAZENON』を含め数多のヒット作を手掛けている雨宮監督は天才だと思う。

とはいえ、永遠に全盛期の人などいないわけで。『ユニバース』は素晴らしかった。恐らく、次の作品も素晴らしいものになるだろう。では、その次は?更にその次は?永遠に素晴らしいものを作り続けることはできるのか?
答えは分かりきっている。そんなことができる人はいない。だからこそ、雨宮監督を「みんなで倒す」物語だったんじゃなかろうか。
「みんなの力を合わせて作った『グリッドマン』で俺を倒してくれ!俺の作った『SSSS.GRIDMAN』を、『SSSS.DYNAZENON 』を超える作品を作ってくれ!」
みんなの力を合わせたグリッドマンと、雨宮監督の化身であるマッドオリジンの戦いには、そんなメッセージが込められているような気がしてならない。

「グリッドマンユニバース」は、なんでもありであるが故に二次創作も内包してしまえる。
知らない人もいるかもしれないが、『GRIDMAN』放映時に二次創作関係のいざこざがあった。まあ割と当たり前のことを公式から注意したら変な捉え方をされて話題になった、みたいなしょうもないことではあったけど。そういうこともあってか、未だに「グリッドマンって二次創作禁止じゃなかったっけ?」みたいなこと言ってる人もたま~~~に見るんだよね。全然そんなことはないんだけども。


それが関係しているのかは分からないけれども、二次創作についてはむしろ歓迎している、どんどんやってくれ!という姿勢を感じた。
学校で、みんなでグリッドマンを描くシーン。あれは「上手い下手に関わらず、自由に自分なりのグリッドマンを描いている」わけで、まさしく「自由な創作の場」。そこで描かれた色んなグリッドマンを、裕太は放置したり捨てたりせず、全部ちゃんと拾い上げ、結果それがグリッドマンの新しい姿と力になった。
グリッドマンは誰の者でもないみんなのヒーローであって、受け取り手の数だけ異なるグリッドマン像がある。それを否定せず、どんなにブッ飛んだものであっても肯定できてしまう下地が『ユニバース』で形成された。「こういう宇宙をグリッドマンが作っていた、という設定です」としてしまえばそれでいい。
別に絵や物語が下手でも構わないし、グリッドマンがどんな姿になっても、誰が変身してもいい。なんならグリッドマン本人が出なくてもOKだし。(参考:『DYNAZENON』)

そもそも創作者がかなり優遇されているというか、「創作すること」に重きを置いている印象があるんだよね、グリッドマン。原点である『電光超人』からしてグリッドマン(の姿と名前)やアシストウェポンは一平の創作物。『GRIDMAN』世界での神であるアカネは怪獣を創っているし、『DYNAZENON』での最強形態・カイゼルグリッドナイトは、ちせ=創作者の生み出したゴルドバーンがいないと成立しない。『ユニバース』でも、アカネのちせの合作怪獣・ビッグゴルドバーンが切り札になったし、なんならグリッドマンも世界を創る能力を得ている。

創作という行動により生み出されたものは、多くの人を感動させたり、大金を動かしたりできる可能性を秘めている。もしかしたら、今この感想を読んでいるあなたが漫画を描けば、大ヒットして有名雑誌で連載されたり、アニメされたりするかもしれない。
まあでも、大抵の場合はそうはならないだろう。創作で成功するのは一握りの人だけだ。
それでも、創作することで手に入れられるものはきっとある。『ユニバース』ではそういう風に描かれていた。

作中で描かれたグリッドマンの絵は、ちせを除いてお世辞にも上手いとは言えなかったが、それでもUniverse Fighterを構成する大事な要素となった。クラス演劇は衣装もチープで、物語も普通の高校生が書いた程度のものなので恐らくクオリティは高くもないし、なんなら事故も起きたりするが、それでも見て笑ってくれる人はいる。

「創作し、可能性に挑んでみてほしい。結果として大成功できなくても、誰かの成功の助けになったり、嬉しい経験ができたりするから。」

グリッドマンにはなれずとも、グリッドマンを支え、ともに戦うアシストウェポンにはなれるかもしれない。アシストウェポンになれずとも、グリッドマンを信じ、応援し、たまに助言する内海にはなれるかもしれないのだ。

「だから、失敗を恐れず自分なりのグリッドマンを創ってほしい。受け皿は用意した」
「そして、みんなの力を合わせ、それぞれのグリッドマンを合体させて、今の『グリッドマン』を超える力を『グリッドマン』というコンテンツに与えて欲しい」

そんな心意気と願いを感じたし、だからこそ今こうして、慣れない長文を書いてる。自分が感じたこと、思ったことを形にするのも「自分なりのグリッドマン」だと思うし。ちょっとまだ話書いたりするのには手が出ないが、まあいずれ、必ず。

おわりに

『SSSS.GRIDMAN』と『SSSS.DYNAZENON』、人気作同士のクロスオーバー映画を、やりたかったこと・やりたいことを全部やった形で作り上げる。
『電光超人グリッドマン』に始まり、『SSSS.GRIDMAN』で爆発し、以降数多のスピンオフやコラボにより混沌と化した『グリッドマン』というコンテンツを、整理し、統合し、一つの宇宙へと昇華させる。
『グリッドマン ユニバース』は、「期待されていた」前者と「予想外だった」後者、この二つを完璧にやり切った超意欲的な名作だった。

この作品に込められた思いは、きっとたくさんの人の心を動かし、そして新たなユニバースが次々に生まれていくだろう。そうして生まれたユニバースは、きっと回り回ってグリッドマンの力になる。そしてグリッドマンはまた多くの人の心を動かす……。
そうして無限に広がっていくであろう「グリッドマンユニバース」。その始まりを見事に描き切り、極上のエンターテインメントとして完成させてくれた制作陣に、今一度心からの感謝を送り、この感想を締めくくりたい。

………ところだが、シーンごとの感想とか思ったことについて全然触れられていない。まだまだ語りたいことは山ほどあるが、結構長くなってしまっているのでここまでを『全体感想』として、また後日別の記事で各シーンについて語ろうかと思う。
まだ1文字も書いていないので、アップするには少し時間がかかりそうではあるが…………。

ということで一旦終わりです。ここまで長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

普通。

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