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NVCとキリスト教(5つのyoutube素材をもとに)③

第1章 RadioActive Radio extra 05「非暴力コミュニケーション~つながりを取り戻す」を聞く(中編)


 このyoutube動画(音声)からNVC(非暴力コミュニケーション)を学びながらキリスト教的な解説をしています。


■自分にとって何が大切か(30分12秒~35分17秒) 

「ファシストの安倍をつぶさないと日本が戦争に行ってしまう」をどう翻訳するかは26分台に問いは出たものの具体的な翻訳例は述べられませんでした。しかし、実際に何を言うか以前の心の在りようとしてNVCの肝が語られていました。それは、自分にとって何が大切かに戻ってくることを一番大切にするということです。つまり、この安倍政権への言葉は、自分が安全を求めていたり、理解してほしいことを求めているからこそ、出て来たということ。そして非難することが必ずしも安全につながるか、理解されたいことにつながるかというと、そうとは限らないということです。
 ソーヤー海さんがそのイメージとして、「自分の家に火がついているときに、火をつけたであろう人の家に火をつけるよりも、自分の家の火を消してから観察して動く」と語っていました。相手を非難して火をつけにいくよりも、自分の火を消すこと。「安全でありたい」とか「理解してほしい」という つらい気持ちを自分で抱きしめたり、別の人に聞いてもらうことが述べられていました。
 わたしたちは実際、人とのやりとりにおいて、自分が痛んだままで相手に語るのと、痛みがある程度癒されてから相手に語るのとでは、言葉に含まれるトゲがずいぶん違うことを実感してきたのではないでしょうか。その意味で、自分がある程度、癒されること、自分についた火が消されることを大切にしたいのです。逆に言えば、癒されてないまま、火がついたままでは、暴力的な言動になりやすいと言えるでしょう。その意味でも、自分にとって何が大切かに戻ってくることを一番大切にするのです。
わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う。
恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。イザヤ41・13

 傷ついて恐れると攻撃的になりがちです。自分が痛んで、家に火がついていても、神はあなたを助けると宣言しています。そうであるなら、他人の家に火をつけにいく必要もなければ、恐れる必要もありません。自分が大事にしたいものに気づき、それを抱きしめ、場合によってはそのことを誰かに打ち明けて祈ってもらうこともあれば、直接神に打ち明け、一番大事にしたいことを満たし導く神に信頼するところから始めていきたいのです。神はわたしたちの右の手を取って、助けると宣言しておられます。そこに安らうなら、トゲのある言動から自由になるでしょう。そうであるなら、相手も必要以上にいきり立つこともなくなります。

■非暴力を生きること(35分18秒~37分22秒)

 「共感することは別に相手におもねることではないし、非暴力とは意見を言わないことではないと思うのね。社会に対して自分にとっての価値に合っていないこと、安全を満たさないことがあれば、声を上げて、これはわたしたちにとって大変なことですと言う必要はある。それを表現するために、その前にいかに相手を尊重したり、相手がなぜそんなことをしたかを批判なしに考えられる状況になってから声を上げることができると対話ができる道が拓けると思う。インドの独立運動がうまくいったのはガンジーが相手の話を聞く気があったから。」と鈴木重子さんは語っています。
 まず自分がトゲある言動をすることから自由になった中で声を上げるからこそ対話ができる…そのことを伝えています。頭ごなしに否定したり、言動にトゲがあれば、相手は心閉ざしたり、頑固になりやすい。でも逆に、相手を尊重し、なぜそうしているかを批判なしに考えて接するなら、対話の道は拓けます。実際にガンジーはそのようにして相手の話を聞こうとしたからこそ、インドは非暴力によって独立を勝ち取ることになりました。
「隣人を自分のように愛しなさい」(マルコ12・31)は主イエスも大切にし、パウロも大切にした教えです(ガラテヤ5・14参照)。
 NVCのプロセスを見ると、まず自分が何を大切にしているかに目を向けます。それから相手が何を大切にしているかに目を向け、その相手を愛します。自分に目を向けてないとトゲある言動になりかねません。自分がケアされているからこそ、相手にもケアが行き届きます。自分を後回しにし続けていると、怒りが蓄積して大爆発してしまうことがあります。その意味でも、自分を愛するように隣人を愛するのです。それは非暴力を生きることにつながるものでもあります。


 
■嘆きと希望(37分23秒~38分39秒)

 話はNVCよりも、ジョアンナ・メイシーという仏教哲学者によるアクティブ・ホープに移っています。アクティ・ホープのワークショップでは、今ある世界を非難することなくただただ今の痛み、嘆きを話し合って、聞き合います。そうして大きな怒り、絶望から希望に帰って来るというものです。単なる脱線ではなくて、この希望の力が非暴力を実践するうえで大切なエネルギーになるからこそ、アクティブ・ホープの話になっています。
 さて、アクティブ・ホープって、仏教哲学者の見解だから、キリスト教と違うでしょ、という声もあるかもしれませんが、ウォルター・ブルッゲマンという北米を代表する旧約聖書学者の見解と似てたりします。彼の著書『預言者の想像力 現実を突き破る嘆きと希望』(日本基督教団出版局)には「ほんものの批判は、深く悲しむ能力からはじまります」(54頁)。「預言者の批判は、実際にうずいている悲しみへと人々の心を集めることと、その叫びに聞く耳をもたず、無関心という応答しかできない聞き手から離れるよう養うことを土台としています」(56-57頁)。「私は、次のイエスのことばほど預言者のミニストリーを簡潔にまとめていることばはないと思うようになりました。「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」(ルカ6・21)、もっとよく知られた表現を用いるならば、「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5・4)です」(229頁)と書いています。
 預言者とは人々を悲しみへと集め、その悲しみはやがて慰めへと向かう、笑うようになることへと向かうことを告げています。もっと言うなら、キリストの十字架と復活そのものが嘆きの道であると共に復活という希望への道でもあります。
 また教会の歴史において18世紀まで教会の祈りの中心は詩編でした。詩編の中には多くの嘆きの詩編があり、会衆は詩編を通して嘆きを共に祈り、そしてそれに続く神による希望を1800年間、賛美してきたのです。(E.H.ピーターソン著『牧会者の神学』日本基督教団出版局48-49頁)
 そんなわけで、現代の教会、キリスト者たちはもっと痛み、嘆きを語り合い、聞き合ってもいいように思います。それは共に十字架の道をたどる旅です。十字架への道は復活につながる道です。それこそがキリスト者ならではのアクティブ・ホープ(受け身ではなく『能動的な希望』)の道と言えるでしょう。ブルッゲマンは「死の現実を受け入れる者だけが、新しいいのちを受け取ることができます。更に、嘆かない者は慰められず、終わりに直面しない者は始まりを受け取ることができない」(126頁)と語っています。
 暴力や横暴があるなら、共に嘆き合い、十字架の道を歩きましょう。それこそが復活へ至る道であり、関係修復へと向かう力となるのですから!

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