「沈黙」遠藤周作 を今風に読む

 私の名前はキチジロー。元々は難しいことを考えるのが苦手でお人好しで酒好きで何のとりえもない漁師でしたが、周りの風潮でちょっとカッコいいかもと思い軽い気持ちでキリシタンになりました。田舎の若者がちょっと憧れてすぐにヤンキーになるような感じです。皆で酒を飲んだりどこかへ行ったりするのが好きなだけでしたが、時折お祈りとかをしているとなんか気持ちいい感じになって、俺も捨てたもんじゃないなと思ったりしました。

 そんな折、いつもの通り漁に出ていたら急に時化に出会って船が漂流し、マカオに来ることになりました。マカオで偶然「日本に行きたい外人がいる」と聞いて、ポルトガル人の司祭と出会いましたが彼は私をうさんくさそうな目で見ていました。しまいには「あなたはキリシタンですよね」とか聞いて無理やりそうだと言わせようとしていましたが、こっちはそれほど真面目なキリシタンではないし、キリシタンになって嫌なことも沢山あったので黙っていました。それでもともかく彼らと出会ったおかげで日本に帰ることができました。

 マカオから一緒に来たロドリゴは最初から嫌味な感じの奴でした。私のことを全く信用していないばかりか、「俺が日本のカトリック教会を建て直してみせる」的な野心がみえみえで、また「キリスト教こそが最高の考え方でそれを信じない者は悪人で、ましてや棄教する奴は最低だ」という意識がありありでした。

 私は自分で言うのも何ですが根は善良で人には優しいのですが、そういうロドリゴの上から目線が気に入りませんでした。とはいえ外人には優しくしてあげなくちゃとも思い、彼を役人からかくまってあげたり、他のキリシタン部落へ伝令に行ったりしてあげました。それなのに人質として長崎の奉行所に行かざるを得なくなり、こちらは泣きそうな気持で「なんのために、こげん苦しみばデウスさまはおらになさっとやろか」と言った時も彼は弁護もせずただ沈黙するだけでした。奉行所へ連れて行かれ、私は役人の脅しにあっさりと負けて踏み絵を踏んで聖母に屈辱の唾をしましたが、それをできなかった他の二人が海岸で十字架に吊るされたときにも、彼は離れた山の中でひとりで沈黙するだけでした。こんな人情のない外人神父を誰が信用できるでしょうか。

 その後私は役人にロドリゴを山から連れ出して来い、さもないとまた部落の人間を人質に出せ、と脅されたので山に戻りました。山から下りる途中、ロドリゴは腹が減っているようだったので可哀そうだと思い干魚を食べさせたのですが、翌日もっと喉が渇いたようで逆に私をにらみつけるような目で見ていました。人の親切をあだでかえすような奴だったので役人に引き渡したときにはザマーみろとも思いましたが、やはり可哀そうなことをしたなと思い、思わずゆるしてつかわさい、という言葉が涙とともに出てしまいました。


 ロドリゴが牢屋に収容された後も、私は気になって告悔を聞いてもらおうと思いましたが聞いてくれたのかどうかもわかりません。でも私は叫びました「踏み絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏み絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ」私の声は届いていたのでしょうか。ロドリゴが自分でもわからない何かに導かれるような私の気持ちをわかってくれたかどうかはわかりませんが。


 はっきりと変化があったと分かったのは、彼がフェレイラ神父に会ってからだと思います。処刑の前日、穴蔵の牢にいるロドリゴは大きな鼾の音を聞いて牢番の役人が居眠りをしていると思っていましたが、実は「穴吊り」にされている信者の呻き声だと気付きました。信者たちは既に「転ぶ」と言っているが、役人はロドリゴが棄教するまで信者たちに対する拷問を続けると言われ、そのときどうもフェレイラ神父はロドリゴに次のように棄教を勧めたようです。

『お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない。お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ。わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら、たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう』


 その後私はロドリゴの中間として、一緒に暮らすことになりました。彼は何かつきものが落ちたように今までとは別人のような人間になりました。その心の中は今でも私には覗きようもありませんが、少しは想像できるようになりました。それは恐らくこういうことなのでしょう。人は様々な考え方を持ち、それを深く信じることもできます。しかしながら考え方には純粋とか不純という判断はつきにくく、社会や時代環境という現実にあわせていくことが必要なのだと。西洋では正しいと思われる考え方も東洋では必ずしも正しいわけではなく、また時代や場所が違えばそれも変化していく。そのような現実を踏まえた上で、自分なりの信念に基づいた行動ができるかどうかということもまた大事なことなのだと。


 聞くところによるとベトナムでもロドリゴと同じような目にあっている人が多々いるようです。日本的なやり方や考え方を100%信じ込み、教条的にベトナム人にやらせようとしてうまくいかず人間関係に悩んでいる人達です。日本の桜は美しいのは万人が認めていることですが、それをベトナムの地に移植しようとしても、水や育てる土が違うのであればうまく育ちません。水や土の違いをよく理解して日本の桜と全く同じではなく、日本とはまた違ったベトナム風の桜の花を咲かせることが肝要なのだと思います。ロドリゴも西洋の美しい花を、それとは一味違う日本的な美しい花に咲かせようと最後まで努力としたことを記しておきます。
 

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