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天孫降臨の地 高千穂

高千穂町が天孫降臨の地という事は言うまでもないが、今町民のどれくらいが、わが町高千穂は天孫降臨の地だと自信を持って言えるだろうか?

何となく、知ってはいるけど、どういう神話や伝承が残っていて、神社にはどんな神様が祀られているのか?

僕自身、全般に詳しいわけでもなく、まだまだ勉強している身であるが、改めて、ここ高千穂は天孫降臨の地である!と、自信を持って言えるように勉強していこうと思っている。

さて、天孫、瓊瓊杵尊が御降りになられる際、天之八衢(やちまた)において、全身が輝いていて鼻が高く、赤く光り輝くものが立っておられた。

天照大御神は、天鈿女に「そなたは女性ではあるけれど、恥恐れず、敵に向かい合う強い神です。そなたが行き、その者が誰であるか尋ねて来なさい」と伝えた。

すると、天鈿女はほぼ裸状態で、しかも笑いながら、その者の前に立ち、名前を問うた。

これは、相手の闘争心を削ぐ為の戦略だったのか、呪術的なものなのかは分からないが、その者は「なぜに!?」と思ったが、名を「国土の神、猿田彦大神である。天孫が御降りになられると聞き、道標をする為待っていたのである」と伝えた。

「それでは、どこへ降るのが良いか」と聞くと、「筑紫の日向の高千穂の槵觸の峯がいいと思います」と伝え、早速天鈿女はその旨を報告し、瓊瓊杵尊は、いよいよ天の八重雲を推し分けて、猿田彦大神の道案内を受け、槵觸の峯に降り立った。

このように、我が集落、本組地区は過去、町の中心地でもあり、今の町立病院付近、また陣内地区まで、昔は同じ集落であり、様々な石器や土器、土偶や石棒が出土されるなど、古来から人が住んでいた。

本組地区には、他にも、槵觸峯と続きで、四皇子峯、高天原遥拝所、高山、低山、天香具山、神代川、藤岡山、天真名井などなど、神話にまつわる場所が非常に多い。

そもそも、高千穂の由来は、日向風土記によると、瓊瓊杵尊が二上山に天降られた際(槵觸神社は二上神社と言われた時もあった)空が何も見えなかった。その時、この地に元々住んでいた土蜘蛛の大鉗(おおくわ)、小鉗(おくわ)が現れ、「尊のその手で稲千穂を抜き、籾にして四方に蒔けば、明るくなるでしょう」と言い、尊は言われた通りにやってみると、空は明るく晴れ、日月照り輝き、地上に降り立つ事ができた。よって、この地を「智鋪」と名付けたという。

高千穂八十八社の総社である、高千穂神社。
創建は人皇11代垂仁天皇と言われている。

定かではないが、3世紀後半から4世紀前半頃からと思われる。

さて、高千穂神社の主祭神はご存じだろうか?

十社大明神ということで、三毛入野命が、主祭神と思われる方が、もしかすると多いかも知れないが、あくまで主祭神は『高千穂皇神』である。

高千穂皇神とは、瓊瓊杵尊と、その妻木花咲耶姫。そして、彦火火出見尊(山幸彦)と、その妻
豊玉姫命、そして、鵜葺草葺不合尊と、その妻
玉依姫命ということで、日向3代、3夫婦のことを言う。

この神たちを、三毛入野命が、ここ高千穂宮に祀り、後に高千穂氏(三田井氏)がお仕えしてきたと伝えられている。

高千穂という地は、天孫降臨の後、3代に渡って住まわれたという、地であるのだ。

高智保皇神は承和10(843)年、続日本後紀によると、神位として、従五位下を授けられ、また、天安2(858)年に、高智保神として、従四位上を授かる事ができ、日向国一の位を授けられているのだ。※神階、神位は神より授けられた位階の事。

2回もこのように授与があったという事は、祭祀を司る相当の氏族がいたとも思われるが、後に位が下がってしまうことを見ると、天慶年間(938年〜)より豊後の国より大神一族が高千穂太郎と名乗り、入国した頃から、変わっていったのではないかと、甲斐徳次郎氏は考証されているようだ。

高千穂神社に残っている一番古い書「旭大神文書」(文治5年《1189》)によると、十社大明神という名前がでてくる。

※何故、そのように変わっていったかの考察はまた後日。

その頃から明治初期まで宗社。明治4年には三田井神社として県社。そして、明治5年には高千穂神社と改めるも、明治6年には村社と、徐々に位も下がってしまうのであった。一方で、槵觸神社は明治6年に二上神社と改称し、県社となった。高千穂槵觸の峯は高千穂宮縁の聖地ということで、槵觸神社は高千穂宮、高千穂皇神とは切っても切れない関係であると識るべしとある。

【以前書いた記事】

上野地区に住んでいた杉山健吾という人が、延岡藩の重税に苦しみ、神領運動を行う。

失敗してしまうも、「ここ、高千穂は天孫降臨の聖地なるぞ!」と、高千穂に誇りを持っての行動であり、町民がそう望んでいたと思われる。

また、大正時代になると、様々な学者が来高され、古文書を調べ、日向国史編纂にあたるなど、様々な考察や研究がなされたのであった。

そして、大正14年には秩父宮両殿下(大正天皇の第二皇子)が高千穂へ来られ、槵觸神社では参拝後御手植になり、岩戸神社、高千穂神社と参拝し、国見ヶ丘へ行かれた。その際、高千穂住民が宮様に対する気持ちや神々の雰囲気を歌にした『秩父宮殿下奉迎歌』というのを歌われたそうである。

昭和になると、高千穂碑を建てようと、甲斐徳次郎氏が身を提し、たくさんの人たちを動かし、41年に建てられたのである。

これは、高千穂という地が、古事記・日本書紀、外多くの古書に誌されているように、皇祖が筑紫の日向の高千穂に御三代宮居せられ、御統治された事を顕彰する為に作りたかった。要は、杉山健吾氏らも運動したように、高千穂という地を天孫降臨の聖地であることに誇りを持ちたかったという現れであろうと思う。

それが、認められたということで、ついに胸を張ってここ高千穂は天孫降臨の地で、日向三代が住まわれたところであると言えるということなのである。

その後、高千穂神社も、当時の宮司や総代さんらを中心に、別表に掲げる神社に認定されるのであった。(別表神社は社格を表すものではなく神職の人事のみに関わる区別のことであるが、一種の格付けと捉えられていることも事実とのこと)

よって、高千穂神社の主祭神は高千穂皇神で、鎌倉期から呼ばれた十社大明神はあくまでも配祀神という事は知っておかねばならないという事である。

高千穂神社のその経緯については、また改めて書きたいと思う。

【参考文献】
○高千穂皇神の御栄え 後藤勝美著 昭和52年発行
○高千穂の故事伝説・民話 高千穂町老人クラブ連合会 平成2年発行
○別嬪に掲げる神社に指定申請 高千穂神社 昭和45年
○神々の坐す里 高千穂の神社 高千穂観光協会発行 平成19年発行
○高千穂村々探訪 甲斐畩常著 平成4年発行
○鬼八退治伝承 田尻隆介講義にて
○神々の里 本組 たかまがはら 平成3年発行


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