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恵良八幡様について

恵良八幡神社についてまとめてみたいと思います。

五ヶ瀬町三ヶ所地区、枝垂れ桜で有名な浄専寺のある宮野原地区を更に奥へ諸塚方面へ行き、右手側に入っていくと、尾原という地区がありますが、まっすぐ道路沿いに走っていくと、左手に『恵良八幡神社』が見えてきます。

立派な鳥居と社があります。

西川功先生の説明も書いてありますが。

由来は天正19年(1591)9月27日延岡藩城主の高橋元種が三田井氏の仲山城、淡路城、大野原亀山城を落城させます。

三田井家の重臣が主君の遺児を負うて杉の越を越し内の口地区まで逃げてきます。

ところが、追っ手が執拗に追いかけます。

危うくなり、足軽村の農家へ駆け込み、(自分は落人であるが、かくまってくれないか?」とお願いします。

家主は甲斐繁右衛門。

とっさに天井裏の芋蒸し桶に隠れさせます。

主人が梯子を外すと、追っ手がやって来られ、
「落人が来たはずだが、出せ!!!」
と言います。

主人は
「それなら今、向こうの道を坂本方面へ急いで行くのを見たけど、もし私を疑うなら家中探しても構いませんよ」
と、命にかけて武士をお守りしました。

一命を取り止めた武士は間道を教えられ、長原という地区へ逃れます。

百姓屋で一休みし、自分がここを通った事を追っ手には決して言ってはいけないよと言って、また逃げて行きました。

程なく、追っ手が来て武士の事を尋ねると
「今ここを立たれたばかりです」
と、教えてしまいます。

武士は追っ手が追いかけて来ているのを知り、いよいよ迫って来ているのを感じると、子供を背負ったままでは自由がきかないと、敵手になぶり殺されてしまうだろうという事もあり、子を降ろし我が手にかけ殺します。

道端に花を手向け、自分は更に谷に沿って逃れて行きます。

奈良津(なろうず)という村の恵良(えら)という所へ来ましたが、道も更に悪く、疲労もピークで、近くの森へ飛び込み身を隠しました。

武士が持っていた刀は名刀『蛍丸』。

暗い所では蛍のように光をだし、それで見つかってしまい、その場で斬られてしまいました。

武士の死骸は村人によって手厚く葬られ、天保5年6月、里人はこの哀れな落人の為に慰霊塔を建て、その霊を祭り、更にその前に神社を建て、『恵良八幡』と称しました。

この武士をかくまった内の口の甲斐繁右衛門の子孫の所には芋蒸し桶は同家の屋根裏にあるとの事ですが、今現在もあるかは私自身確認はできていません。

幼児を殺して花を手向けた所を「花折りの元」と言い、子供は(お竜)という女の子であったと言われています。

また、地元の甲斐さんという方の語り継がれてきた話があります。

それは、同じように追われて逃げてきた落人が
「今私は追われての身、荷物になるので、この品を預けておきます。もし私が帰ったら、それを返していただきたい。もし亡くなるような事でもあれば、当家で末代まで祀ってください」
と、伝え、置いていったものは阿弥陀如来の掛け軸でした。

それは、代々語り継がれ390年余り経っても現存しているとのことです。

正史にはないので、証明はできないそうですが、三田井家のものか、その重臣の御本尊様なのかは知る由もないそうです。

これが恵良八幡に係る掛け軸のお話でした。

その後、故人も村人の功徳に感じたのか、村の誰かに不思議な力が宿るようになったそうです。

最近までもそのチカラを持っている方がおられたそうですが、その方はお亡くなりになった後は、まだその能力は受け継がれていないようです。

次に選ばれるのは、あなたかも!?しれません。

参考文献
西川功著 高千穂太平記
荒踊りの郷づくり委員会作成 荒踊の里 坂本むかしばなし

#恵良八幡 #五ヶ瀬町 #蛍丸 #高千穂 #高千穂太平記

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