見出し画像

手嶋海嶺さんのNote「プラットフォーム事業者と「表現の自由」:アメリカの最新裁判に迫る!」への感想

本記事は手嶋海嶺さんのNote「プラットフォーム事業者と「表現の自由」:アメリカの最新裁判に迫る!」への感想です。
手嶋さんの記事をご一読いただいていることを前提としており、各所で前提情報や単語の解説を省略しますので、読みにくいかもしれません。
私個人の備忘録くらいのイメージでご覧いただければ幸いです。

今回題材にさせていただく手嶋海嶺さんの該当Noteは、アメリカにおけるプラットフォーマーへの法規制に対する2つの裁判の状況を説明し、裁判から見えてくる各種論点を整理した内容です。
個人的には非常に考えさせられるNoteでしたので、このトピックに興味がある方は是非ご一読いただいた方が良いと思います。
ただし、手嶋さんのNoteは一部有料となっていますので、ご留意ください。

■プラットフォーマーと新聞社が持つ編集権は、そもそも別物である大前提があることのおさらい

手嶋さんNote【論点③:コンテンツ・モデレーション等は「言論」か?】については、私が過去に末席ながら企業の検閲機能に従事していた経験から、プラットフォーマー側の主張に少なからず理解できるところがありますので、最初に取り上げようと思います。

まず、大前提として、そもそも新聞社とプラットフォーマーが行使する編集権には違いがあります。

他人の表現物に対して、新聞社は編集をしますが、プラットフォーマーは編集をしません。

新聞社は他人の文章や画像などの表現物を素材とし、時には文章の誤字脱字を修正したり(原文ママ)と注釈を入れたり、画像にキャプションを差し込んだりします。
一方でプラットフォーマーがSNSに投稿された文章や画像を編集しません。
投稿に誤字脱字があっても修正しませんし、画像にキャプションを差し込むこともありません。
プラットフォーマーはあくまで他人の表現物を表示/非表示にしたり、表示順を変えるだけです。
新聞社に誤字脱字を修正された人は居ても、プラットフォーマーに誤字脱字を修正された人は基本的には居ないのです。

このように、両者の編集権には差異があります。

この差異を正確に理解するにあたり、即席の造語になりますが、文章や画像などの表現物そのものを作成したり手を加え編集する権利を「表現の著作内容に対する編集権(=著作編集権)」としましょう。そして、著作編集権により作成された表現物の表示順や掲載可否を調整する編集権を「表現の構成に対する編集権(=構成編集権)」とします。

以下の図の赤色の部分、記事や投稿の内容を編集する権利が著作編集権です。
それら記事や投稿の表示順や大きさ、掲載可否を編集する権利が構成編集権です。

著作編集権と構成編集権

そうした場合、新聞社は著作編集権と構成編集権の両方を行使していると言えます。紙面を作る過程で他人の表現物を編集して記事を作り、記事の表示順を紙面上で編集しているからです。
一方で、プラットフォーマーはユーザーの掲載する他人の表現物を編集せず、あくまで非公開にしたり表示順を変えるに止まります。プラットフォーマーは著作編集権を行使せず、構成編集権のみを行使していると言えるのです。

新聞社とプラットフォーマーが行使する編集権の違い

そして、この著作編集権の有無から、両者の負う責任に違いが生じます。

著作編集権を行使すると、文章を自ら書いたり、他人の文章を書き換えたりするのですから、問題が発生した場合は当然文責を求められます。一方で、文章の中身に関わっていないのなら文責を求められません。
そのため、新聞社は自ら文章を書き編集するので文責を求められ、一方でプラットフォーマーは文章を編集しないので文責を求められません。

では、プラットフォーマーには何の責任もないかと言えば、そうではありません。
プラットフォーマーは構成編集権を手放していないので、構成編集権上の責任を求められます。

例えば、第三者の権利を侵害する投稿を削除しない場合はプラットフォーマーも責任を問われます。
ひろゆきが2ちゃんねる(プラットフォーム)運営時代に名誉毀損で訴訟された事案を皆さんご存知かと思います。
あの時ひろゆきが名誉毀損で訴えられたのは、あくまで投稿の削除依頼を無視したからであり、構成編集権から生じた責任を問われたのです。決して自ら文章を書き編集した著作編集権者として負う文責を問われたのではありません。もし原告がひろゆきにも文責を問いたいのなら、削除依頼など経ずに即裁判を起こしていたのです。

日本のプロバイダ責任制限法も、プラットフォーマーに構成編集権上の責任を問う建て付けになっています。プラットフォーマーが、第三者による他者の権利を侵害する投稿を削除をしたなら責任を負わなくて良い、裏返すと削除を怠り被害を拡大させた場合には責任を負うことになるとしています。

そして恐らくアメリカの通信品位法230条も、手嶋さんのNoteにある以下の弁論趣意書を読む限りでは、プラットフォーマーが自らコンテンツを作成していないことを保護の条件としていることから、日本のプロバイダ責任制限法と同じよう建て付けを含む内容になっていると推測できます。

新聞とは異なり、プラットフォームは 「ニュース、コメント、広告のための仲介者」である(Tornillo, 418 U.S. at 258)。彼らが求める(訳注:新聞には無い特別な)230条による保護は、この点に依存している。230条の保護を受けるためには、プラットフォームは、単に「一部」であっても、基礎となるコンテンツを「作成」してはならないと定められている(47 U.S.C. § 230(c)(1), (f )(3))。

手嶋海嶺「プラットフォーム事業者と「表現の自由」」州司法長官パクストンの弁論趣意書まとめ
※太字は筆者(KD)による


ちなみに、パクストンの弁論趣意書の引用部分は著作編集権に関する議論になっています。

それゆえに、彼らは純粋な第三者の言論に対しては責任を負わないが、「彼ら自身の言論に対しては責任を負う」 (Universal Commc'n Sys., 478 F.3d at 419, including "speech that is properly at-ributed to them", Nemet Chevrolet, Ltd. v. Consumeraffairs.com, Inc., 591 F.3d 250, 254 (4th Cir. 2009))。

230条に基づく訴訟では、プラットフォームは単なる「他人の言論の仲介者」であり、その内容については何の責任もないと繰り返し裁判所に主張してきた。(Appellees' Br. at 1, Klayman, 2013 WL 5371995; See also Twitter Motion to Dis- miss, Fields v. Twitter, Inc., No. 3:16-cv-00213, 2016 WL 2586923 n.5(N.D. Cal. Apr. 6, 2016) (Twitterは「膨大な量の第三者の言論の仲介者」と同様に扱われるべきと主張した); Motion to Dismiss Reply, Colon v. Twitter, Google, and Face- book, No. 6:18-CV-00515, 2019 WL 7835413 (M.D. Fla. Dec. 20, 2019)

手嶋海嶺「プラットフォーム事業者と「表現の自由」」州司法長官パクストンの弁論趣意書まとめ
※太字は筆者(KD)による

続けて引用されている「それゆえに、彼らは純粋な第三者の言論に対しては責任を負わないが、彼ら自身の言論に対しては責任を負う」とする部分は、まさに著作編集権から生じる責任の話しをしています。
プラットフォーマーは第三者の言論の内容には関与していないので責任を負わないが、自ら発した言論には責任を負う。当たり前です。

そして引用は続き、プラットフォーマーは「(第三者による投稿の)内容には責任を負わない」と繰り返し裁判で主張しているとしています。著作編集権を持たないプラットフォーマーが「表現の内容」に責任を持てないと主張することにも、自分は理解ができます。

その上で、パクストンは以下のような問題提起を行います。
新聞社も他者の文章を編集せずに紙面に載せることがあるのに、何故プラットフォーマーのように文責を回避できないのか、と。

対照的に、新聞社は「(違法な)言論が自社のものではないという理由で、訴訟を回避することはできない」(Pitts- burgh Press, 413 U.S. at 386; see also Tornillo, 418 U.S. at 261 (White, J., concurring))。

手嶋海嶺「プラットフォーム事業者と「表現の自由」」州司法長官パクストンの弁論趣意書まとめ
※太字は筆者(KD)による

この問題提起自体は、とても素朴な疑問だと思います。

ただ、先述の通り、著作編集権を持つ新聞社と、持たないプラットフォーマーでは求められる責任が異なります。

言うなれば、スイッチを押しさえすれば誰も死なない暴走したトロッコ問題です。ただし、Aさんにはスイッチを押す権利があり、Bさんにはスイッチを押す権利がありません。
その場合、Aさんがスイッチを押さなければ責任を問われ、Bさんがスイッチを押さなかったとしても責任を問われないでしょう。

著作編集権(≒スイッチを押す権利)を持つ新聞社と、持たないプラットフォーマーも同じです。
新聞社は第三者の表現物を編集する権利を持っています。そして、高品質な記事を提供するために、掲載されている記事全てに目を通します。
そのため、新聞社が問題のある文章を掲載したのなら、それはあえて編集しなかっただけの著作編集権上の成果物と見做されて責任を問われるのです。一方でプラットフォーマーは第三者の表現物に対して著作編集権を持たないので責任を求められません。

パクストンは、両者が行使する編集権に違いがあることに考えが及んでいないので、責任にも違いが生じることに気付けていないのです。もしかしたらプラットフォーマー自身も上手く説明できていないのかもしれません。

ここまでのように、著作編集権と構成編集権のような概念で補助線を引いた上で手嶋さんのNoteを改めて読むと、プラットフォーマーの主張も少しは理解し易くなると思います。


この項目の最後に、プラットフォーマーが著作編集権を放棄して行使していない理由について軽く触れたいと思います。

例えば、誰かがSNSに投稿をする場合、投稿を編集する権利(=著作編集権)を持つ人物になりうるのは、ユーザーとプラットフォーマーだけです。
そして、この2者間における著作編集権の配分は、現状ではユーザーに100%割り当てられています。翻すとプラットフォーマーには著作編集権がありません。
つまり、プラットフォーマーが著作編集権を持たないのは、全ての著作編集権をユーザーに移譲しているからです。
投稿に際してユーザーが完全無欠の自由を持たせるから、プラットフォーマーは著作編集権を持たないのです。

その前提がある中で、プラットフォーマーに著作編集権上の責任を持たせると、どうなるのか想像できますでしょうか。
プラットフォーマーからすると、問題のある記事に手を加えないでいると責任を負わされるのです。であれば、手を加えたほうが良いのです。
プラットフォーマーが投稿に手を加える(著作編集権を持つ)と言うことは、ユーザーの著作編集権の配分が90%、80%…と目減りすることを意味します。ユーザーの表現の自由が欠損するのです。

具体的に、Twitterでレスバが白熱した際に、誹謗中傷や名誉棄損になりうる箇所が伏字や書いてもいない和解の言葉だらけになるのです。※非表示にした方が楽なのですが、それは構成編集権上の話しなので切り分けが必要
もっと酷くなると、投稿した猫ちゃんの画像が全裸中年男性に置き換えられうるのです。余計なお世話です。非表示にされた方がよっぽどマシなのです。

そのように、プラットフォーマーに書いてもいない文責を負わせると、プラットフォーマーが投稿を編集する仕組みになりうるのです。
このような問題のある投稿がプラットフォーマーにより書き換えられる状態は、ユーザーの自由が保障されていると言えるでしょうか。

私はそんなものを自由だと思いません。
私は、SNSのいちユーザーとして、自分の投稿に対する完全に自由な著作編集権を持ちたいので、プラットフォーマーには引き続き著作編集権を放棄していて欲しいのです。
そして、プラットフォーマーに著作編集権上の権利を放棄して欲しいからこそ、彼らに責任を負わせてはならないと思うのです。
投稿内容に対する著作編集権上の全責任は、全権利を持つ投稿者たる私(ユーザー)が負います。

それ故に、プラットフォーマーが投稿内容に対して、新聞社と全く同じ責任を持つことに断固反対なのです。
新聞社が持つべき責任と、プラットフォーマーが持つべき責任と、プラットフォームを利用するユーザーが持つべき責任は、各登場人物がどのような権利を持つのかを考えた上で適切に設定すべきなのです。


■コンテンツ・モデレーションは「表現」であるか、「行為」であるか

次は手嶋さんNote【論点③:コンテンツ・モデレーション等は「言論」か?】の主題についても、この著作編集権と構成編集権の概念から、少し理解し易くなると思います。

まず、コンテンツ・モデレーションが「行為」であるように見えるのは、手嶋さんのNoteにある通り「プラットフォーム事業者が第三者の人々による言論をコンテンツとして反映する時は、場所を提供しているだけであり、プラットフォーム事業者として"言論を発表している"(speaking)とは言えない」からです。

ただ、先述の通り、プラットフォーマーはユーザーに著作編集権を全て移譲しています。貸し出した場所をユーザーの好きに編集させているので、その投稿内容がプラットフォーマーの言論ではないことは明らかです。
ただ、そうではなく、最も重要なのは、プラットフォーマーが手放していない構成編集権が「表現」なのか「行為」なのか、です。
元々手放している著作編集権上の投稿がプラットフォーマーの言論でないことは当然なのです。

著作編集権が投稿や記事(場所)のひとつひとつに対する編集権であったのに対し、構成編集権はそれらの投稿や記事をでプラットフォーム/紙面全体をどう構成するか、言わばプラットフォーム/紙面全体に対する編集権です。
著作編集権が「場所」に対する編集権であることに対比させるなら、構成編集権は場所の集合体である「空間」に対する編集権です。

構成編集権から生じる空間に対する編集行為とは、紙面/プラットフォーム上で、どの記事/投稿を採用するのか不採用にするのか、記事/投稿の表示順をどうするか、その結果、紙面/プラットフォーム全体で何を訴求するのか、そういった意図を持って指向性を定める編集作業です。そしてこれは、コンテンツ・モデレーションそのものです。

例えば、コンテンツ・モデレーションのうち、投稿された内容の掲載可否を判断する投稿監視業務では、サイトの趣旨と無関係な投稿を削除するケースがあります。商品のレビュー欄に商品と無関係な日記を投稿されたり、可愛い猫ちゃんの画像を投稿するサイトに猫耳を付けた全裸中年男性の画像が投稿されたら、削除したり表示の優先度を下げます。

このように、プラットフォーマーはサイトの趣旨に沿って投稿を掲載非掲載/表示順の変更などを行い、プラットフォーム全体で何らかの指向性を生じさせます。
新聞で言うなら、賛否の記事を掲載しつつも、否定的な記事ばかり大きく取り上げるなどして、一定の指向性を持たせる行為です。
空間に立ち返れば、白川郷の景観条例のように建設不可な外装を指定したり、自宅のインテリアを和風に統一するにあたって洋風な家具を採用しないと言った行為です。

ここは自分自身納得感のある回答を用意できていないのですが、直感的には、構成編集権から生じるこれらの行為を「表現」だと言って良いと思います。
これらの行為は、空間をデザインする表現の一種であり、特に、新聞の例は総合的に意図を読み取ることができる「言論」だと言って差し支えないかと思います。
少なくとも今のところの自分の印象では、構成編集権が「言論」ではないとする理屈を用意する方が難しいと感じます。
Twitterで猫の画像をリツイートしている人を見たら、この人は猫ちゃんのためなら死ねるくらい好きなんだなと感じるでしょう。
それはつまり、自分で文章や画像を編集しなくても、自分のタイムラインの構成を編集するだけで一種の主張が形成できている証左です。
それ故に記事や投稿の構成を編集するだけであっても言論である要素を排除できないんだと思うのです。

また、第三者の投稿をリツイートしたところ名誉棄損で訴えられた裁判がありましたが、これも言わば自身に著作編集権のない投稿を、自分のタイムラインに掲載する構成編集権上の行為に対する責任の所在を問う裁判でした。
それら裁判の中にはリツイートを「賛同」と見做した判決があります。
それは、差異場所がリツイート行為から意思を読み取れると認めた事例として挙げられるのかもしれません。

不十分かもしれませんが、以上のように、著作編集権と構成編集権を分離し、その上で構成編集権が言論であるとしたなら、手嶋さんが指摘するようなプラットフォーマーの矛盾や、発生する二重拘束状態を回避します。

この近辺の議論は、NetChoiceにとって二重拘束状態になっているわ。

「私たちのデプラットフォームやコンテンツ・モデレーションは、私たちの表現・言論の一種であり、表現の自由で保護される」と主張すると、「では、デプラットフォームやコンテンツ・モデレーションの方法やその結果に法的問題があれば、それは【お前の表現・言論】だと自ら認めている以上、投稿者と一緒になってお前も責任を負うんだな?」と言われちゃうわ。

実際、NetChoiceは新聞社の判例を根拠にして、「編集上の判断」「編集上の裁量権」を主張したけど、新聞社は掲載コンテンツについて法的責任を負ってるからね。

手嶋海嶺「プラットフォーム事業者と「表現の自由」」論点③:コンテンツ・モデレーション等は「言論」か?

プラットフォーム事業者は、これまで法的責任を問われそうになると、さんざん「私たちは新聞とは異なる存在であり、場所を提供する"行為"に従事しているだけの仲介者です」と主張してきたわ。
それが今回、デプラットフォームやコンテンツ・モデレーションが「検閲」として制約されそうになると、「私たちは新聞と同じ存在であり、編集上の裁量権を行使して、自らを"表現"している表現者です(だから「表現の自由」で保護されます)」と主張を真逆に変えている。
苦しいわね? 傍目からもそう思うわ。

手嶋海嶺「プラットフォーム事業者と「表現の自由」」論点③:コンテンツ・モデレーション等は「言論」か?

これらの内容は著作編集権上の権利と責任、構成編集権上の権利と責任が区別なく使われているので、意味が通じないのです。
その点を整理した上でプラットフォーマーの回答を読み解くと、以下のようになります。

「デプラットフォームやコンテンツ・モデレーションは、構成編集権から生じる私たちの表現・言論の一種であり、表現の自由で保障される。
ただし、新聞社のように文章の中身には関与していないから著作編集権上の責任を負わない。」
「故に我々は著作編集権上では新聞社と異なる存在の行為者であり、構成編集権上では新聞社と同じ存在である表現者なのです。」

私が書いた文中の著作編集権と構成編集権を「編集権」と同じ単語で表現するから、矛盾したことを言っているようで、意味がわからなくなるのです。
繰り返しになりますが、手嶋さんのNoteに記載されている「編集権」や「責任」がどんな意味で使われているかを想像しながら読み直すことをお勧めします。

■表現規制反対派が望む表現規制推進

先述の通り、コンテンツ・モデレーションが構成編集権に基づくプラットフォーマーの表現の自由である場合、「フロリダ州法 SB7072」および「テキサス州法 HB20」の両州法は、プラットフォーマーの表現の自由に対する規制です

つまり、両州法に賛成する立場は、表現の規制を推進する立場です。

このことは、「表現規制反対派」を自称する一方で、両州法を支持する人たちに、1つの疑問を投げかけることになります。
あなた達は本当に「表現規制反対派」であるのか、と。

「表現規制反対派」を名乗り両州法を支持する立場を端的に説明すると、「私は表現規制に反対である。故に国家は企業の表現を規制せよ。」です。
この主張は一見矛盾しています。

両州法に限らず、GAFA憲法論や企業の自主規制批判をはじめ、企業による表現の危険を説く行為が行き着く先は、企業に対する規制です。
企業とはいえ表現と密接する行為を規制しようとしているにも関わらず、表現規制反対派を名乗るとはどういうことでしょうか。

少し意地の悪い書き方になりましたが、これは、個人の表現の自由と、プラットフォーマーの表現の自由の衝突に起因した問題であることは承知しています。
プラットフォーマーへの表現規制により、社会全体orユーザーへの表現規制は総体として抑制されるため、表現規制反対との立場で正しい」と言えるでしょう。

ただ、自分がやろうとしていることは表現規制に違いないことだけは忘れずにいて欲しいのです。

トランプ元大統領に対するプラットフォーマーの仕打ちは、仮に表現の自由であっても、権利の濫用と言っても過言ではないでしょう。
そのため、私もプラットフォーマーに対する規制は一定量必要だと考えています。
既に独占禁止法や労働基準法による最低賃金制度、放送法など、市場における公平な競争や弱者保護の観点から企業に対して規制が行われているので、プラットフォーマーの権利も一定量規制されて然るべしと考えます。

ただ、その規制は問題を正しく理解し、何に対する規制であるのかを十分に吟味する必要があります。
規制とは誰かの自由を制限する行為です。それを軽々しく行ってはなりません。
手嶋さんのNoteを見た限りでは、私が投稿した猫ちゃん画像が猫耳全裸中年男性に差し替えられる世界になってしまわないか、とても不安な気持ちになってしまうのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?