新田会所の建築(1)鴻池新田-地域のお宝さがし-28

所在地:〒578-0974 東大阪市鴻池元町2-30

■新田開発■
江戸時代の大坂では、町人などが請け負う新田開発が河口部や内陸部で盛んに行われました。新田会所は、開発された新田の経営、作物・年貢米、住民などの管理や寄合、武家の接待などを行う施設で、新田の支配人や開発主などがその業務を行いました。ここでは、現在大阪に残されている新田会所を紹介します。

■鴻池新田会所(重文)
鴻池新田は、宝永元年(1704)の大和川の付け替えによって新開池(東大阪市)への流水量が減少したため、翌2年に鴻池屋善右衛門宗利が新田開発に着手し、同4年に完了しました。会所は、宝永3~4年頃に建築され、宝暦9年(1759)と嘉永6年(1853)に大改修されています。
 敷地は矩形で、東面に庭園・神社(朝日社)、西面に米蔵などが配置されています(図1)(注1)。中央部の南面から北面にかけて、冠木門(図2)、表長屋門(図3)、本屋、舟着場(図4)などが設けられています。敷地の周囲は濠で囲繞され(図5)、舟着場に発着する舟で本家と行き来がなされていました。

図1

図2

図3

図4

図5

注1)「史跡・重要文化財鴻池新田会所」掲載図。

●本屋 重厚な外観●
本屋へは、表長屋門から二手の通路が設けられています。右の通路は式台が設けられた「ゲンカン」、左の通路は、日常の出入口である「ニワ」(土間)に通じています。段違いの本瓦葺き屋根の頂上には煙出しが設けられ、下屋は桟瓦葺き、右側の玄関上部は一段高く切り上げられています(図6~7)。

図6

図7

正面の切妻屋根平側(長手方向)の重厚さに対し、西・北面は妻面を組み合わせ、変化に富んだ軽快な屋根が構成されています(図8)。

図8

●質素な屋内●
式台を上がった「ゲンカン」には長押や釘隠が施されていません(図9)。

図9

ここから右へ続く、「クチノマ」・「ツギノマ」・「ザシキ」が接客空間です(図10)(注2)。「ツギノマ」と「ザシキ」の境には菱欄間が設けられています(図11)。「ザシキ」には、床の間に書院が設けられず、床脇は地袋・天袋のみで違い棚はなく、長押・釘隠も施されていません(図12)。さらに、東側の「タタミエン」が南側に回されていないなど、質素な設えです。

図10

図11

図12

「ゲンカン」左の「カンジョウバ」は、会所の事務を行う業務空間です。三方に差鴨居が施され、建具は襖の竪・横の桟が表れています(図13)。

図13

一段下がった広縁を隔てて「ニワ」に面しています。この北の「カミダイドコロ」・「シモダイドコロ」は賄い場です。広い庭には多くの竈が設けられ、この空間を支える梁組が圧巻です(図14)。

図14

注2)「史跡・重要文化財鴻池新田会所パンフレット」掲載図

●池泉鑑賞式庭園●
東面の庭園は、江戸時代末期に作られた池泉鑑賞式の平庭です。この形式の庭は、座敷から庭を鑑賞するもので、「ザシキ」の「タタミエン」から、生駒山を取り込んだ借景を楽しんだのでしょう。また庭に出て、樹木や庭石・石灯籠や弁天池の石橋などを巡る楽しみもありますが、平庭だけに変化が乏しいのは仕方がありません(図15~16)。

図15

図16

■閑話休題■
鴻池新田会所について、「茶室はおろか数寄屋風の装飾すら抑制され、権威主義的な公共建築といえる。鴻池家では仕事場に主家の遊戯施設を導入することを忌み嫌っていた。」との指摘があります(注3)。
本会所は、居宅に居住した新田支配人が業務の差配をする、鴻池家の出先機関であり、業務優先の施設ですから接客空間・業務空間の設えも質素ですし、鴻池家の施設ですから公共建築でもありません。
さらに風光明媚さなどを考えると、当主がここを別荘として使用することも考えにくいのではないでしょうか。次回は平野屋新田会所を紹介します。

注3)osakarchit.exblog.jp/7681569/

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