大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-17三津寺

■繁華街の小さな寺院、濃密な仏の空間に心が癒やされる■
真言宗御室派 所在地:〒542-0085 大阪市中央区心斎橋2-7-12

■由緒■
『摂津名所図会』(以下『図会』)では、三津寺筋に位置する当寺(図1)を、古義真言宗「大福院」と号し、「寺説」によると開基は僧行基で、本尊(十一面観音)もまた行基の作であること、証拠は不明としながらも、三津(御津)八幡の神宮寺であると紹介されています。

図1

一方、明治時代中期には、「今もある所の真言宗の寺院は、むかし有し三津寺には非ずして、大福院と称し修験者が中興せしもの」、つまり、今の三津寺は昔の三津寺ではなく、修験者が再興した大福院であると紹介されています(『浪華百事談』以下『百事談』)。

この著者は、江戸時代、当寺から官への出願や官からの呼び出しには、「すべて大福院と呼び、三津寺の寺号を用ゆることなし」と、伝え聞いています。これから、三津寺は元和年間に「小庵にて遺」っていたが、頽廃してしまったため、修験者が跡地に「寺院を建て大福院と号し、三津寺跡の大福院」と呼んでいたのが、いつのまにか世人が「三津寺と称」したのだろうとしています。一説によると、当寺は寛文初期(1662)以降の寺院のようです(『続南区史』)。


明治時代中期の三津寺の本堂には、「行基作長五尺八寸の十一面観世音」が安置され、境内には多くの諸堂があったことから、江戸時代からの繁栄が窺われます。

■神宮寺か鎮守社か■
神仏習合の思想にもとづいて、神社に設けられた寺院を神宮寺、寺院に設けられた神社を鎮守社とよびます。三津八幡と三津寺、よく似た名称からその関係が問われるのでしょう。

●三津寺神宮寺説●
 三津寺を三津八幡の神宮寺とするのは、『図会』と『百事談』です。前者は、既述のように証拠不明としていますが、後者は、「古図には八幡宮はあれ共、三津寺のなきを以て考ふれば、三津寺は神宮寺といへるは実ならんか」と、古図を根拠にしています。もっとも古図名は不詳ですが。

●三津八幡鎮守社説●
三津八幡を三津寺の鎮守社とするのは、『蘆分船』と『難波丸綱目』です。前者には、「是行基菩薩の止住の所也。我此所に鎮座あるへしとの。神勅にまかせ。寺を以て。宮とす。」との文と、「三津寺八幡」と記された図が掲載されています(図2)。後者には、「是行基菩薩心住の地なり。此所に鎮座有べしとの告にまかせて寺を以て宮とすと也。」とあり、前者と同様の文が記されています。

図2

どちらに軍配をあげるものではありません。神も仏も受け入れて、参拝する人が有難く感じられれば良いのではないでしょうか。

■寛政の大火で焼失■
当寺は寛政3年(1791)の大火で焼失し、現在の本堂は文化5年(1808)の再建とのことです。 『図会』には、境内に幹の周囲が「五尋半」(注1)もある楠の大木があったが、「近年の火災に枝葉焼亡す」とあります。掲載された図には、南面の門を入った境内中央に大きな「名木楠」の上部に、この楠は寛政3年の大火で焼亡したが、「名樹なれば生出る事もあらんかし」と惜しがっています(図3)。

図3

ということは、この境内図は大火以前の景観と言えます。この楠は、明治時代中期には、「木末枝を伐て幹のみを残せるものなり」とあり(『百事談』)、幹が残されていたことが分かります。
境内を見ると、北面に本堂・観音堂、東面に地蔵・稲荷、西面に庫裏が配されていて、南門周辺の雰囲気は現在とよく似ています、(図4)。

図4

焼失前の景観を意識して、文化5年(1808)に再建されたのでしょう。
注1)1尋を約6尺(約1.8m)として、約10m。

■現在の景観■
本堂は妻入り[つまいり]で、前面に大きな唐破風[からはふ]が設けられ、包み込まれるような空間が形成されています(図5)。

図5

唐破風の下をみると、二段の虹梁[こうりょう]とも、下部に眉[まゆ]、左右に袖切り[そでぎり]と若葉文様[わかばもんよう]が施されています。下段の虹梁中央に龍を模した蟇股[かえるまた]、上段中央には大瓶束[たいへいづか]と笈形[おいがた]が備えられ(図6)、木鼻[きばな]には貘[ばく]が顔を出していて、ユーモラスです(図7)。明治12年(1879)には、本堂を仮議場として、第1回大阪府議会の開会式が行われました。

図6

図7

図1では、御堂筋の拡幅が行われていないので、明治以降の三津寺の景観が描かれていますが、昭和8年(1933)の御堂筋拡幅のさい、御堂筋に面する庫裡が鉄筋コンクリート造で建て替えられました(図8)

図8

昭和初期には、鉄筋コンクリート造(以下RC造)に瓦屋根を架けた伝統的な意匠が流行しますが、当寺の庫裡や琵琶湖ホテル(図9~10)のように、木造の形態を忠実にRC造に置き換えようとする点に、当時の和風RC造の意匠の特徴があります。

図9

図10

図11

この庫裡は昭和20年(1945)の空襲にも罹災を免れ、堂々たる外観を御堂筋に見せています(図11)。

■閑話休題■
当寺の東側は心斎橋筋、その南は戎橋です。江戸時代の心斎橋筋は、「浪花第一の繁花なれバ昼夜を分たず往来衢に充満せり此通りの北にいたれバ大丸の呉服店ありて終日買人雲霞の如く」(『浪華の賑ひ』)と、現在と同様多くの人が行き来しています。さらに、「浪花観音巡拝の札所」などとして多くの参詣者を集めています。まさに繁華街のオアシスであったのです。

【用語解説】
・妻入り: 建物の妻側に出入口があること。
・唐破風:向拝[こうはい]などに設けられる、中央部が起り[むくり]、両端部が反っている破風。
・虹梁:社寺建築などに用いられる、中央部に起り[むくり]をつけた梁[はり]。
・眉:虹梁などの下部に施された眉形の彫刻。
・袖切り:虹梁左右端の薄く欠き取られた部分。
・若葉文様:植物の葉を図案化した模様の総称。
・蟇股:虹梁などの上に配される、かえるが股を広げたような形式の部材。
・大瓶束:瓶[へい](口が小さく、胴が細長い徳利形の壺)の形をした束。本屋・唐破風などの
妻に用いられる。 
・笈形: 大瓶束の左右に施された装飾。
・木鼻:貫[ぬき]などが柱から突き出た部分。動植物などの装飾を施すことが多い。

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植松清志

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