大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-13南御堂復興計画③

所在地:大阪市中央久太郎町4-1-11

これまで、戦後の南御堂の復興計画について、第1期の桑名萬組案、第2期の大阪大学案・木村得三郎案、第3期の東京大学案を紹介してきました。一方、竹中工務店も第2期・第3期に復興計画案を作成しましたが、第3期における建築顧問の選任によって設計者が確定されたため、その念願が果たせませんでした。今回は竹中工務店の復興計画案を紹介します。

■竹中工務店案
1.昭和26年7月6日案(図1)
本案は、第2期復興計画初期のものです。敷地の北側中央に池、その南部に木造平屋建ての位牌堂が配され、位牌堂に隣接する本堂は、南面を正面として南北方向に計画されています。本堂の内部は、北部に舞台(その奥に仏壇)と客席で構成され、正面両脇の広間から左右の廊下を介して位牌堂と連絡されていることから、位牌堂は法要などの際に使用する計画と思われます(図1a・1b)。また本堂の東北部に、1階に食堂、2階に宿泊室などが配された施設が計画されています。

図1a

図1b

正面の入口に面して楕円形のオープンスペースが設けられ、中央主階段の左右は事務室・応接室や便所、2階には事務室・貴賓室・会議室などが配されています。正面の湾曲した壁面が美しく、リゾートホテルのような印象をうけます(図1c)。

図1c

本案が以後の案と大きく異なるのは本堂の向きです。本堂は敷地の北側に東向きに建立、収容人数は1,500人程度とするなどの申し合わせが行われるのは、昭和27年12月の委員会でのことです。それを受けて、翌28年5月の阪大案は敷地の北側・東向きを遵守、29年8月の木村案は敷地の南側としながらも、本堂は東向きで計画されていますので(第11回目参照)、この時点では、復興計画の明確な方針が定まっていなかったのかも知れません。

2)昭和29年4月8日案(図2)
 本案は、昭和29年3月末に木村に設計が依頼された時期に作成されたものです。敷地の南側に位置する本堂(講堂)は、東面を正面として東西方向に計画され、東側中央部の入口の北側にロータリー形式の自動車の進入路、入口から主階段までの途中、ロータリーの中心付近に直方体の鐘楼が配されています(図2a)。

図2a

本堂は、玄関、円柱が建ち並ぶ広間、大講堂・舞台・内陣などで構成されています。舞台と内陣が仕切られていることから、法要時には舞台が外陣、大講堂は参詣人席となり、それ以外ではホールとして使用する計画と思われます。さらに、敷地の東南部に円形の幼稚園舎、南西部には、1階に宗務所、会議室・食堂、2階に診療室などが設けられた別館が配されています(図2b)。

図2b

正面の外観は、左手の円形の幼稚園舎と緩やかな曲面屋根が架けられた体育館のような意匠の講堂が並立し、学校建築のような印象をうけます(図2c)。

図2c

本案の透視図は残されていませんが、「APR 1954」(昭和29年4月)の記載がある透視図が残されています(図2d)。

図2d

図2a~cと比較してみますと、図2dの講堂の形態、手前の一段下がったオープンスペースの計画などは酷似していますが、直方体の鐘楼が2本となり、左側の幼稚園舎の位置には矩形の建物が見えます。どちらの案が先かは不明ですが、例えば、昭和30年3月案(図2e)は、講堂の形態や鐘楼の位置は図2dに酷似していますが、東南部の幼稚園舎や南西部の別館がなくなっています。

図2e

これらから、当初は鐘楼が2本、幼稚園舎は矩形の計画であったものが(図2d)、1本の鐘楼、円形の幼稚園舎となり(図2a~c)、さらに鐘楼はそのままで園舎・別館の計画が変更された(図2e)と推測されます。

3)昭和30年8月31日案(図3)
 本案は、昭和30年8月19日の企画部会において木村A・B案が説明された直後のものです。敷地の南側に位置する本堂(会堂)は、東面を正面として東西方向に計画され、御堂筋に面して設けられたオープンスペースの中央部には直方体の鐘楼が建ち、これを南からめぐるように車路が配され(図3a)、地階に会堂、2階に本堂が設けられています。

図3a

地階へは1階両脇の階段を利用します。会堂は、ロビー、観客席・舞台などで構成されています(図3b)。2階の本堂へは、オープンスペース両脇の舗装された通路から外部階段を上がり、長方形の列柱が並ぶバルコニー中央から入ります。本堂は、地階ロビー上部の大広間、会堂上部の外陣・内陣、舞台上部の和室の大会議室、小会議室などで構成され、全体がH形にまとめられた重層形式です(図3c・3d)。

図3b

図3c

図3d

正面の外観は、長方形の開口部が縦横に規則正しく配された意匠で、劇場のような印象をうけます(図3e・3f)。

図3e

図3f

4)昭和33年案(図4)
本案は、透視図の「1958」から昭和33年の作成と判断されます。敷地の南側に位置する本堂は、東面を正面として計画されています。本堂前の蓮池の周囲にスロープが配され、参詣者は蓮池中央部の通路を通り正面の大階段から本堂へ入ります(図4a)。両脇の階段は、講堂(地階・中地階)への階段です。

図4a

講堂は、観客席を中核に、東部の広間、西部の機械・電気室、北部の休憩室、食堂、南部の休憩室、通夜室などが突出するように配され、全体が十字形にまとめられています(図4b)。

図4b

1階の本堂も、東部に広間、西部に仏具入、北部に説教場、南部に会議室などが配された十字形の重層形式で、本堂両側の吹抜を介して翼廊が設けられています(図4c・4d)。

図4c

図4d

外観は中央大階段の上に列柱を並べ、瓦葺き向拝付きの方形屋根が架けられ、左右に方形と切妻屋根の付属屋が配された、伝統様式による豪壮な意匠です(図4e・4f)。

図4e

図4f

なお、図4gは図4fの東南方向からの透視図です。図4hは制作年が不明ですが、本堂と両脇の翼廊の構成から、図4fをもとにして屋根を入母屋に架けたものと思われます。

図4g

図4f

瓦葺きの伝統様式による意匠は、これまでのモダニズムによる竹中工務店案からすると唐突のように感じられますが、昭和33年2月の委員会で本山式の伝統的様式にこだわる委員が少なからずいたことから、それらの意見を考慮して委員会の前に作成されたものと推測されます。5月の内田祥三(東大総長)の建築顧問就任を考えると、本案は竹中工務店の最後期のものと思われます。

■閑話休題
それにしても、この昭和33年案が実現して北御堂と類似の大建築が並立していれば、南御堂と北御堂の大屋根が連なる近世の景観が現代に蘇り、大阪の新名所になったのではないかと、想像をたくましくしてしまいました。

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植松清志

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