新田会所の建築(2)平野屋-地域のお宝さがし-29

所在地:〒574-0022 大東市平野屋1-9

■深野池の開発■
宝永元年(1704)に付け替えられる以前の旧大和川は、安堂村(柏原市)付近で北上し、弓削村(八尾市)で玉串川と久宝寺川に分かれ、前者は北上・分流して新開池(東大阪市)と深野池(大東市)に流入し、後者は北西を進み大坂に至っていました。それが付け替えによって流水量が減少したため、池や川沿いに新田が開発されることになります(図1)(注1)。

図1

宝永2年に深野池の開発権(325町1反5畝)を得た難波御堂は、75町の開発権を河内屋源七(河内屋南新田・河内屋北新田)に譲渡し、残りを深野北新田・深野新田・深野南新田(約62町)に区分して開発に着手しますが、経営困難に陥り、平野屋又右衛門によって、享保6年(1721)に深野南新田と河内屋南新田(約28町)が買い取られました。この両新田の管理などのために設けられたのが平野屋新田会所で、これが「平野屋」の地名の由来です。その後も所有者が変わり、文政7年(1824)に銭屋(高松)長左衛門の所有となり、平成20年(2008)まで継続されます。

注1)『大阪市史附図』に加筆。


■平野屋新田会所■
平野屋新田会所は、18世紀前半の新田開発の当初には存在したようです。敷地は東西方向に長い矩形で、西面に銭屋川、北面と南西部に濠、中央部に主屋(主屋棟・座敷棟)、南面中央部に表長屋門、東面に庭園・池・築山、東北部に坐摩神社、北面に裏長屋門、北西部に舟入、西面に米蔵・船着場などが配置されています。(図2)(注2)。図1では、坐摩神社は敷地外になっていますが、大正7年(1918)に写された古図によりますと、元は敷地内にあり、周囲が濠で囲まれていたことが分かります(図3)。

図2

図3

注2)「よみがえる平野屋新田会所」掲載図に加筆。同会所の図は、図3以外同書より転載。平野屋新田に関する記述は、同書・「平野屋新田会所跡発掘調査概要」・「平野屋新田会所跡」による。

●主屋 重厚な外観●
主屋へは、表長屋門(図4)(注3)から二手の通路が設けられています。右の通路は、入母屋屋根の下に式台が設けられた「玄関」、左の通路は、日常の出入口である「土間」に通じています。

図4

注3)四半世紀前には表長屋門が残されていたが、立入禁止であった。

図5

主屋は享保10年の建築で、明治25年(1892)に、主屋棟の玄関・勘定場・台所などの修理が行われるとともに、座敷棟が立て替えられました。主屋棟の外観は江戸時代と大きく異なっているとは思えませんが、玄関上部の入母屋屋根はこの際に付加されたものと推察されます。

●屋内●
式台を上がった「玄関」から右側には、接客空間である「次の間」「座敷」が配され(図6)、「座敷」の床には付書院、「次の間」には長押が回され、欄間が設けられています(図7)。鴻池新田会所の接客空間は、玄関から右側へ「クチノマ」「ツギノマ」「ザシキ」の三室構成ですが、平野屋新田会所では「次の間」「座敷」の二室で、南・東面に入り側椽(南面は欄間付き)が設けられています。

図6

図7

図面・写真から、床の間の付書院、「次の間」の長押・欄間が確認されますが、明治25年という座敷棟の建築年を考慮すると、作事制限があった江戸時代の座敷より格式が調えられているのは当然と思われます。
「玄関」の左側には、業務空間である「勘定場」が配され、「式台」が隣接し、その北側には、「台所」と賄い場である「広敷」・竈が設けられています。

●池泉鑑賞式庭園●
東面の庭園には池が設けられていますが、鴻池新田会所と同様の池泉鑑賞式の平庭と思われます。この形式の庭は、座敷から庭を鑑賞するもので、「座敷」に付属する広い縁側から、生駒山を取り込んだ借景を楽しんだのでしょう。一方、坐摩神社は、地域の住人が参拝できるようにするため、池の東側に築山をつくって敷地を区切ったそうです。

■両会所の共通点・相違点■
●共通点●
平野屋新田会所と鴻池新田会所には、敷地周囲の濠、米蔵・土蔵などの施設の配置、庭園・神社の設置など、多くの共通点があります(図8)。

図8

それは例えば、新田開発された二つの池が隣接している(立地)、作物が主に米(生産)、所有者は市内に居住する豪商(経営)などの要素によるものといえるのではないでしょうか。また、主屋の屋根は本瓦葺きで大坂の町家風、平面は玄関を中心に、右側に接客空間、左側に業務空間が配され、意匠が比較的質素なのは、業務優先の施設であったからでしょう。

●相違点●
相違点には会所の規模が掲げられます。新田開発の規模は、深野池が325町1反5畝、新開池が158町8反ですが、前者は複数に区分されたため、平野屋新田はその90町(深野南新田・河内屋南新田)であったのに対し、後者は鴻池家が主に開発したものです。

これらの数値を見ても規模が実感できませんので、換算してみましょう。
1町は約9,900m2、約3,000坪。1反は約992m2、約300坪。1町=10反です。
1坪は約3.3m2、畳2枚分です。
鴻池新田の規模は、3,000坪(1町)×158.8町=476,400坪。
平野屋新田の規模は、3,000坪×90町=270,000坪。
鴻池新田は平野屋新田の約1.8倍の規模ですが、これでも分からない。

そこで、身近な甲子園球場と比較してみましょう。甲子園球場の総面積(含グランドやスタンドなど)は38,500m2だそうです。これを坪に換算すると約11,666.7坪です。

鴻池新田はなんと甲子園球場約41個分、平野屋新田は約23個分です。
うーん!大規模なのは分かりましたが、とてつもない規模にやはり実感が・・。どちらにしても、これだけの規模の新田を江戸時代の町人が開発したという事実は残ります。「すごい!」の一言です。

次回は、久宝寺川沿いに開発された安中新田会所を紹介します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?