大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-05御霊神社

祭神:天照大神、津布良彦神、津布良媛神、応神天皇、源正霊神
所在地:〒541-0047大阪市中央区淡路町4-4-3

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当社の創建は古く、上町台地の西側に海が入り込み多くの入江が形成されていた時代にさかのぼります。波のゆるやかな圓江[つぶらえ]という入江の守護神圓[つぶら]神祠にはじまるとされます。その場所は、楠永[くすなが]神社(現大阪市西区靱本町)付近といわれています。近世になって隆盛し、ことに、文禄3年(1594)、当社に深く帰依した津和野藩祖亀井茲矩が、屋敷地の一部を寄進したのを機に、圓江から現在地に遷座され、寛文年間(1661~73)に御霊神社と改称されました。

■江戸時代の社殿が大正時代まで継続■
当社は、『摂津名所図会』(寛政10年=1798)では「圓御霊社」[つぶらごりょうのやしろ]として紹介されています(図1)。

図1

図会に描かれた拝殿は、入母屋[いりもや]屋根の平[ひら]側に千鳥破風[ちどりはふ]、向拝[こうはい]に唐破風[からはふ]が設けられた割拝殿[わりはいでん]で描かれています。拝殿前の「二ノ鳥居」について、「此鳥居ハ惣朱塗也」(図1の赤枠)との説明があり、現在の朱塗りの鳥居がこれに該当すると思われます(図2)。

図2

この鳥居の前(図1の右側)の道路に面して描かれている鳥居は、大正13年(194)に作成された地図でも確認されます。朱塗りの「二ノ鳥居」は見えませんが、地図に記された「御霊神社」の表記の下に、南北方向に大棟を配した入母屋屋根の拝殿と思われる社殿が確認できます(図3)。

図3

図会に描かれたこの社殿は、天保8年(1837)・文久3年(1863)の火災にも被災していないことから、江戸時代の社殿の景観が保たれてきたものと思われます。ところが、大正15年(1926)、境内の文楽座の出火で焼失、昭和5年(1930)に再建されましたが、同20年3月の空襲で再び焼失しました。昭和32年に鉄筋コンクリート造で復興された社殿のうち、唐破風と千鳥破風が設けられた現拝殿は割拝殿ではありませんが、図1の拝殿とよく似た外観をしています(図4)。

図4

拝殿の軒裏を見ると、唐破風下部には輪垂木[わだるき]、二段の虹梁[こうりょう]中央部の束の両脇には笈形[おいがた]が配され、虹梁下部には眉[まゆ]が施され、木鼻[きばな]が設けられるなど、伝統的な木造建築の形態を遵守しているように見えますが、庇の垂木は省略され、舟肘木[ふなひじき]は分割されるなど、木造の形態をそのまま鉄筋コンクリート造に置き換えたのではないことがわかります(図5)。華やかで美しい社殿の彩色は仏寺建築の影響です。

図5

都心の神社に共通することですが、緑が豊かで静寂な境内で、都心にいることが忘れそうです。

【用語解説】
・入母屋屋根:寄棟[よせむね]屋根と切妻[きりづま]屋根を合わせた屋根。
・平:棟と平行な側。
・千鳥破風:屋根面に設けられた切妻の破風。
・向拝:礼拝のために設けられた、社殿などの正面から突き出た部分。「ごはい」ともいう。
・唐破風:向拝などに設けられる、中央部が起り[むくり]、両端部が反っている破風。
・割拝殿:拝殿の中央を土間形式の通路とした拝殿。
・輪垂木:唐破風などに用いられる湾曲した垂木。 
・虹梁:社寺建築などに用いられる、中央部に起りをつけた梁。
・笈形: 大瓶束[たいへいづか]の左右に施された装飾。
・眉:虹梁などの下部に施された眉形の彫刻。
・木鼻:貫[ぬき]などが柱から突き出た部分。動植物などの装飾を施すことが多い。
・舟肘木:柱頭上において、桁[けた]などを直接受ける肘木。

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