大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-20大江神社

■素戔嗚尊の強い力で災厄除けのパワーをもらおう!■
祭 神:豊受大神、素戔嗚尊、大己貴命、少彦名命、欽明天皇
所在地:〒543-0075 大阪市天王寺区夕陽ヶ丘町5-40

■由緒■
当社は、聖徳太子が四天王寺の鎮守として創祀した七宮の一つと伝えられています。四天王寺の鎮守として祀られ、乾の方角(北西)に位置することから「乾社」[いぬいのやしろ]と称されています。寺号は如意山神宮寺、本尊は毘沙門天で、図1にも「毘沙門」と描かれ(『摂津名所図会』、以下『図会』)、幕末頃にも「勝鬘の毘沙門」、社前の坂は「勝鬘坂」と呼ばれていることから(『浪華百事談』)、寛政年間以降の呼称と分かります。

●乾社の様相●
幕末期の乾社には、本殿・摂社・仏堂などがあり、本殿は、中央に毘沙門天、左右に吉祥天女と禅膩師童子[ぜんにしどうじ]が祀られ、社殿は「社壇造りにして拝殿あり」、つまり図1同様、拝殿と本殿で構成される形式です。摂社(天照皇大神宮)は本社の東側、仏堂は本社の後の西にあり、元神宮寺の建物としていますが、「今ハ社司のみにて僧坊の類ひなし」(『摂津名所図会大成』、以下『大成』)とあります。一方、方角が異なりますが、図1の西北部に社、その右側に仏堂らしき建物が描かれています(注1)。これらから、寛政年間にはすでに神宮寺が衰退し、その様相が幕末まで続いてきたことが窺えます。

図1

注1)西北角に描かれた鳥居・拝殿・本殿がならぶ社が摂社、その右側の瓦葺き寄棟屋根、向拝付きの建物が仏堂ではないかと推測される。

●三社を合祀●
先記の七宮のうち、土塔神社(素戔嗚尊)は明治40年(1907)1月11日、上之宮神社(主神:欽明天皇、相殿:大己貴命・少彦名命、):同月29日、小儀神社(速素戔烏尊)は同41年9月25日に大江神社に合祀されました(『大阪府全志』)。他の三社(河堀・堀越・久保神社)は現存しています。

●勝鬘坂はどこ●
当社の6月16日の「毘沙門祭」では、神輿渡御があり、天王寺の楽人が音楽で供奉しますので(『大成』)、図2はその様子が描かれたものと思われます(『図会』)。

図2

図1・2を比べると、鳥居や坂の様子から、行列が同じ坂を上がっていると判断されます。既述のように、「社前の坂を勝鬘坂」とするなら、鳥居があるこの坂が「勝鬘坂」になります。
『大成』では、『摂陽群談』(元禄14年=1701)に「勝鬘坂」は記されていないとする一方で、「遊行寺の東南ニあり是を上れバ・・勝鬘院の門前ニいたるを以て名づくるなるべし」とも記しています(図3)。

図3

これから、①「勝鬘坂」の名称は元禄14年時点では無かった、②図2から寛政年間には乾社前の坂が「勝鬘坂」と呼ばれていた、③幕末には、遊行寺東南の勝鬘院に通じる坂を「勝鬘坂」と呼ばれていたことが分かりますが、③は現在では「愛染坂」と呼ばれています。尤も、幕末には「愛染坂」の名称が見あたらないことから、幕末以降、「勝鬘坂」→「愛染坂」と名称が変化したと思えるのですが、「勝鬘坂」=「愛染坂」とする説もあります(『大阪府の地名辞典』)。「勝鬘坂」から「愛染坂」に変わった時期、なぜ「愛染坂」と呼称されるようになったのかが気になります。

■近代の様相■
乾社は、明治初期の神仏分離で大江神社(豊受大神)と改称し、明治4年に郷社に列せられます。明治35年の境内全図では、境内の北部(図1の仏堂付近)に瑞垣で囲まれた一間社流造り[いっけんしゃながれつくり]の本殿と、入母屋屋根妻入りの拝殿が描かれ、江戸時代の景観と大きく異なっています。神仏分離で大江神社になったときに、社殿が新たになったものと思われます。この景観は大正末期にも同様で(図4)、戦災で焼失するまで継続します。戦後、昭和38年(1963)に再建された社殿の位置も焼失前と同じようです。

図4

拝殿は鉄筋コンクリート造で、入母屋屋根[いりもややね]、平側[ひらがわ]に唐破風[からはふ]の向拝[こうはい]が設けられています(図5)。

図5

唐破風の下をみると、下段の虹梁[こうりょう]中央の蟇股[かえるまた]、上段の虹梁下部の眉[まゆ]、左右の袖切り[そでぎり]と若葉文様[わかばもんよう]、上部中央の菖蒲桁[しょうぶげた]を受ける斗[ます]と笈形[おいがた]、出三ツ斗[でみつど]の組物[くみもの]、木鼻[きばな]など、木造の形態が遵守されています(図6)。本殿は木造の一間社流造りで、明治の本殿と同じです(図7)。

図6

図7

■閑話休題■
本尊の毘沙門天、左右の脇侍吉祥天女・禅膩師童子の関係は、禅膩師童子は、毘沙門天の5人の息子の末子で、母は吉祥天です。母子で夫(父)に供奉し、禅膩師童子は毘沙門天の化身として、信者に福徳を授けるそうです。神仏分離の際、毘沙門天は大津市坂本の戒蔵院に移されたそうです(『大阪史蹟辞典』)。毘沙門天の使いの狛虎も、吽形[うんぎょう]は滋賀に移されたとのことですが、脇侍ともども同じ場所へ行けたのか気になります。
残された阿形[あぎょう]の狛虎は、今ではタイガースの守護神として有名です(図8)。

図8

【用語解説】
一間社:柱間が一つの社殿。
流造り:神社本殿の形式。切妻屋根、平入りの前面に庇を延ばしたもの。
入母屋屋根:寄棟屋根と切妻屋根を合わせた屋根。
唐破風:向拝などに設けられる、中央部が起り[むくり]、両端部が反っている破風。
向拝:礼拝のために設けられた、社殿などの正面から突き出た部分。「ごはい」ともいう。
虹梁:社寺建築などに用いられる、中央部に起りをつけた梁。
蟇股:虹梁などの上に配される、かえるが股を広げたような形式の部材。
眉:虹梁などの下部に施された眉形の彫刻。
袖切り:虹梁左右端の薄く欠き取られた部分。
若葉文様:植物の葉を図案化した模様の総称。
菖蒲桁:唐破風などの破風板を支えている桁[けた]。
斗:組物を構成する、上部が直方体、下部が曲面の部材。「と」ともいう。
笈形:大瓶束[たいへいづか]の左右に施された装飾。
出三ツ斗:大斗上部の肘木に三つの斗を載せた組物のうち、壁面から前方へ肘木を突出さ
せた組物。
組物:社寺建築などの深い軒を支えるために用いられる、斗と肘木で構成されたもの。「斗
栱」[ときょう]ともいう。
木鼻:貫[ぬき]などが柱から突き出た部分。動植物などの装飾を施すことが多い。


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