新田会所の建築(4)加賀屋新田会所-地域のお宝さがし-31

所在地:〒559-0015 大阪市住之江区南加賀屋4-8

■加賀屋新田-湾岸部の開発■
大阪湾岸北部の新田開発は、貞享3年(1686)に河村瑞賢が安治川を開削したことで大きく進みます。一方、南部では、宝永元年(1704)に付け替えられた新大和川の河口に土砂が堆積し、多くの新田が開発されるようになります。加賀屋新田もその一つです。同新田は、加賀屋甚兵衛が延享2年(1745)に開発に着手するとともに、宝暦4年(1754)12月22日に当地に建築した居宅に移り、翌宝暦5年の検地(約11町=約33,000坪)により「加賀屋新田」と称するようなりました。

■加賀屋新田会所■
加賀屋新田会所の特徴は、開発主の加賀屋甚兵衛(以下、甚兵衛)が新田会所に居住したことです。これにより、同会所は、鴻池新田会所などのような本家の出先機関ではなく、職住一致の施設となりました。また、甚兵衛は、「町人ながらも茶道の蘊奥を極め」た達人でもあり、芝居を好む(注1)趣味人でもありました。

注1)梅原忠治郎「愉園を見る」(「上方」1931年6月号)、『櫻井慶次郎  日記』(『大阪市史史料』第73号(2009年9月)。

●施 設●
敷地(約48,226m2=約14,467.8坪)は、東西に長い不整形で、周囲は濠で囲繞されていました(注2)。東南部に長屋門、東部に冠木門、中央部の南北方向に玄関・旧書院、居宅、鳳鳴亭・茶室(以下、鳳鳴亭)、土蔵など、西部には庭園が配され(図1・2)(注3)、西池は外部の濠から十三間堀川へ繋がっていました。
施設名称をみると、冠木門、長屋門、主屋(玄関・旧書院など)蔵、濠など、鴻池新田会所と共通するものが多くあり、居宅でありながら会所の機能が備わっていたことが分かります。

図1

図1

図2

図2

注2)注1)と同じ。
    3)図1・2とも、林野全考「数奇屋の風に吹かれて」(「大阪人」
   2003年10月号)の掲載図に加筆。施設名称、室名は、同図による。号)の掲載図に加筆。施設名称、室名は、同図による。

●建築時期●
1)会所の説明 
説明文によると、
①居宅と鳳鳴亭は、同時期の建築の可能性が高い。①居宅と鳳鳴亭は、同時期の建築の可能性が高い。

②鳳鳴亭は、小屋梁に記された文化12年(1815)の墨書と、茶室が補修された痕跡から、建築時期は宝暦4年の会所創建時の可能性があり、文化12年に茶室を中心に建物全体が整備された。

③書院は、座敷の部材が古く、大きな改造がみられないことから、会所創建の宝暦4年を上限とし、鳳鳴亭と同時もしくはこれを遡る時期とし、文政10年(1827)の「家屋質入証文」に、鳳鳴亭が「新座敷」、書院が「旧座敷」と記されていることについて、「この呼称の意味は必ずしも明確ではないが、建築年代の新・旧を表しているのかもしれない。」とあります。

2)筆者の推察 
太字部から、居宅・鳳鳴亭が宝暦4年とすると、書院は宝暦4年を上限とするので、鳳鳴亭より遡ることは不可能です。

一方、居宅の建築が始まるのは宝暦4年8月です(注4)。約4ヶ月の工事で、これらの施設が完成できたのか気になります。翌5年の検地を考慮すると、接待用の書院は、未完成であった可能性もあるでしょう。

鳳鳴亭は、甚兵衛の趣味の施設ですから、居宅より先の完成はないでしょう。となると、大きな時間の差は無いとしても、A:居宅・書院が同時期、その後に鳳鳴亭、もしくは、B:居宅・鳳鳴亭が同時期、その後に書院の順ではないかと推察されます。

また、文化12年に「建物全体が整備」(太字部)されたというのは、日常的に使用されていた鳳鳴亭と居宅が補修されたと推察されます。建築からおよそ60年、大規模な補修があっても不思議ではありません。

書院は、説明文から補修されなかったと思われます。そのため、補修された鳳鳴亭を「新座敷」、されなかった書院を「旧座敷」と呼んだのでしょう。それとも、新しくなった鳳鳴亭に接待の機能が備えられたため、会所の主たる施設として「新座敷」、使用頻度が下がった書院を「旧座敷」と呼んだのかも知れません。

そのためか、前述の「家屋質入証文」によると、書院の玄関は、文政10年以前には、次の間の東部にありましたが、その後南部に移され、現状の形態になっています。

注4)『大阪の歴史』第13号(1984年10月)。

■玄関・旧書院■
武家を迎える玄関は、式台の上部に本瓦葺きの入母屋屋根が設けられ、その妻面には、細い桟を縦横に組んだ狐格子がはめ込まれています(図3)。玄関の左壁面の前に設けられた垂れ壁(2間幅=約2m)下端部の落とし掛けや、杢目が美しい1枚板の天井から、この場が床の間のようにあつかわれていたと思われます(図4)。

図3

図3

図4

図4

玄関を北側へ一段上がると、次の間と旧書院が続きます。次の間には、長押・釘隠が施され、旧書院との境には、細い組子が縦に配された筬(おさ)欄間が設けられ、格式が調えられています(図5)。

図5

図5

旧書院は、床の間の右側に付書院、左側の床脇は違棚と天袋で構成され(図6)、釘隠が施された長押は丸太の半割材で、数奇屋風意匠です(図7)。付書院の火灯窓は元来禅宗寺院に用いられるものですが、全く違和感がありませ。なお、欄間に掲げられた「愉園」の額は、大正3年(1914)に西村天囚が命名した庭園の名称です(注5)。

図6

図6

図7

図7

縁側から見る庭も素晴らしいのですが、軒裏を見ますと、疎(まば)らに配された丸い垂木、丸太の軒桁、その下の幕板に施された彫り物など(図8)、数奇屋風意匠の美しさが感じられます。

図8

図8

庭に面する西部の外観は、本瓦葺きの入母屋屋根、妻面に狐格子・懸魚、一文字瓦の下屋に金属板の庇が設けられていて、格式を調えた数寄屋風意匠でまとめられています(図9)。

図9

図9

一方、鳳鳴亭は、桟瓦葺きの入母屋屋根、妻面に狐格子や懸魚はなく、下屋も一文字瓦ではなく、金属板の庇が設けられているだけです。旧書院と比べると、よく似た意匠で双方の調和がとれ、一体感が生み出されていますが、鳳鳴亭のほうが、さらにくだけた数奇屋風意匠で、柱で床を支える懸(かけ)造りの外観が軽快感をさらに増していると思えます(図10)。

図10

図10

次回は、鳳鳴亭の内部などを紹介します。

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