都島工業学校の生徒作品①-地域のお宝さがし-33

所在地:〒534-0015 大阪市都島区善源寺町1-5-64

■建築設計優秀作品図集■
先般、大阪市立都島工業学校(以下、都島工業)で編集された『建築設計優秀作品図集』(以下、『図集』)を入手しました。昭和15年(1940)3月に、修文館(東京)から定価5円で刊行されたもので、布張りの帙に、着色や薄墨が施された、卒業設計や平常課題の設計図面(47枚)が収められています(図1)。

図1

図1

当時の物価を見ると、例えば、大工の手間賃が3円36銭、レコードが2円40銭ですから(注1)、決して安価とはいえません。で、「その高価な図集は売れたのか!?」と、思わずツッコミたくなりますが、帙の内側に、「謹呈 大阪市立都島工業学校建築科」と墨書されていることから、主に学校関係者などに贈呈されたのではないかと推測されます。何故、このような『図集』が作成されたのかが気になりますし、また、大阪の工業学校生の優秀作品図集が、東京の出版社から刊行されているのも興味深いところです。
『図集』の図面を紹介する前に、都島工業の沿革などを少し見ておきましょう。

注1)週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』(1986年)。

■大阪市立都島工業学校■
●沿革●
大阪市立都島工業学校は、明治41年(1908)5月、高等小学校卒業を入学資格とする、4年制の市立大阪工業学校として創立されました。昭和元年(1926)、校名を大阪市立都島工業学校と改め、全国で唯一の6年制工業学校となります。生徒の年齢は14歳から20歳位ですから、現在の工業高等専門学校(工専)のようなイメージでしょうか。戦後は大阪市立都島工業高校となり、現在に至っています。

●建築科の教育方針●
創立時に設置された建築科は、帝国大学や実業専門学校建築科と、徒弟学校や職工学校大工科の中間に位置づけられ、建築界に必要な人材の養成を掲げています。この方針に基づいて編成された教育課程の中でも、製図は「手ト目ノ技能意匠ト直感審美力ノ養成ニ資」(注2)するとして、特に重要視されています。

注2)『卒業設計図集』(昭和6年3月)の序言。昭和7年3月にも同様の図集が刊行されているが、それ以降については不明。

生徒は、第1学年の図案にはじまり、各種建築の模写(コピー)、設計を経て、最終学年の1学期に、商店の正面(図2、表1図集頁37)、「クラシックオーダー」を用いた小銀行(図3、表1図集頁40)の設計を行い、2学期に卒業設計、3学期には、1学期に行った小銀行の詳細図(図4、表1図集頁41)の作成などの課題が用意されています。

図2

図2

図3

図3

図3の正面図を見ると、中央部入口の柱間を広く取り、基壇と、その上に配されたイオニア式のジャイアントオーダーの柱頭上部(アーキトレーヴ)の間を2分割する3層構成とし、入口の左右は2本の柱間隔を狭めたペアコラムとして、列柱に変化を与えています。側面図は、正面と同様の構成ですが、柱間隔はほぼ均等です。

図4

図4

図4を見ると、内部は1・2階の吹抜をコンポジット式のジャイアントオーダーで支え、2階周囲にはギャラリーが設けられた、華麗な業務空間となっています。
当時の建築界は、ルネサンス様式に基づく様式建築を主としながら、ヨーロッパから伝わった無装飾な近代建築(国際建築様式)が造られるようになっています。生徒達は、伝統的な和風・洋風建築を学びつつ、新しい建築思潮にも敏感に反応しています。それらの作品は卒業設計で見られます。一方、この時期には、鉄筋コクンクリート造に瓦屋根を架けた、いわゆる帝冠様式も流行りますが、『図集』ではこの様式による卒業設計は、選定されていません。

■図集の編集方針■
編集代表者である建築科長中野順次郎は、「序」において「建築製図の勉強態度」を6条掲げ、その第2条で、「設計製図は飽く迄理論的であって、決して無意味な窓や装飾等をつけないこと。」としていることから、当時、都島工業では、伝統的な和・洋の様式建築の習得とともに、機能主義的な立場から設計指導が行われていたことが窺えます。

中野は、東京帝室博物館の設計競技(昭和6年)に佳作入選するなど、教育に加えて設計方面でも活躍した人物で、建築科の設計教育にかける意気込みが感じられます。なお、余談ながら、評論家俵萌子は同人の長女です。
『図集』に収められた作品の選定を担当した長尾勝馬は、最近の10年間の優秀作品のうちから、製図の参考資料となるように、「意匠設計として優秀なもの、製図表現法の巧みなもの」を選定したと、「作品選定に当って」で記しています。一方で、これらの作品には、「全然独創的に設計創案したものと言ふよりは、何かで得たヒントやら、感覚やらによって、見様見真似で作り上げた作品が相当にある」、つまり、現実の建築物や資料などを参考にした作品が多くあることを認めながらも、「意匠製図の腕を磨くのには斯うして作習するのが上達の近道ではないかと思へる」と、指導者としての立場を明確にしています。

●作品●
作者、卒業年、設計題目などは表1のとおりです。

画像5

表の1番目、昭和6年3月の卒業生が入学した大正14年(1925)は、大正12年の関東大震災で金融機関が大きな損害を被り、昭和になると金融恐慌、農業恐慌、米価暴落などが起こり、昭和6年には満州事変が勃発するなど、社会・経済的に不安定な時代の幕開けでした。作品の題目は、昭和8年までは「市民会館」(注3)、「職業紹介所」、「民衆娯楽場」など、社会問題の改善に供する施設、それ以降は「劇場」、「博物館」、「公会堂」、「ビルヂング」など、卒業設計に相応しい大規模な建築が取り上げられています。一方、「中流住宅」、「銀行」・「商店」(前掲図2・3)などは、建築の規模から、平常課題の優秀作品であることが分かります。

注3)この作品は、前掲2) 『卒業設計図集』では、「スラムの中心建築(市民会館)」とあり、「市民会館」は副題であったことが分かる。なお、作者の川島宙次は、後年、民家の研究者として多くの業績を残している。

●図集作成の意図●
都島工業は、昭和元年に全国唯一の6年制工業学校となり、その1期生が昭和6年3月に卒業していることを考えると、昭和15年3月は1期生から丁度10年目、一区切りの時期にあたります。そこで、製図の参考資料とするために、卒業設計と平常課題の優秀作品を公開するとともに、6年制教育の成果を世に問うたとみることができるでしょう。

次回は、卒業設計を中心に作品を見ていきます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?