大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-04少彦名神社周辺(芝川ビル・二人の設計者)

少彦名神社周辺の魅力的な建築のうち、独特な外観で知られる芝川ビルと設計者(渋谷五郎・本間乙彦)を紹介します。

■マヤ・インカ、アールデコ、F.L.ライトの影響も■
芝川ビル(昭和2年=1927)〒541-0044大阪市中央区伏見町3-3-3、登録有形文化財(図1)

図1

●設計の分担
芝川ビルの設計者は、棟札には「渋谷五郎」とありますが(図2)、『建築と社会』(*1)には、基本計画・構造設計渋谷五郎、意匠設計本間乙彦と記されています。芝川ビルの設計を請けた渋谷が、基本計画(平面計画)と構造計算を行い、意匠を本間に依頼したのです(*2)。

図2

なぜなら、渋谷は意匠が得意ではなかったのです。それは、渋谷が芝川ビルの前に設計した建築に対する、「・・さして感心せず、とるに足らないものばかり・・一種の蕪雑な日本的スタイルをのぞかせていて、ひどくおさまりの悪い落ちつかない印象を持っていた」(*3)という評価からも窺えます。そのため、東京高等工業学校(現東京工業大学)の後輩で、当時大阪市立都島工業学校の同僚であった、意匠が得意な本間に芝川ビルの意匠を託したのでしょう。

●本間の意匠
本間(図3)、は芝川ビルの意匠に対し、様式は概ね「近世式」、装飾的細部には、古代の「マヤ及インカの芸術から」ヒントを得たとしていますが(*4)、一方で、「中国の古代文様を参考にして、東洋風のアールデコをつくりあげている」(*5)、建築家フランク・ロイド・ライトの影響をうけた幾何学装飾がある(*6)などの評価や指摘もあります。

図3

本間は、この頃アールデコに興味があったと思われます。芝川ビルが着工(大正15年6月16日)する以前、同14年の秋に本間が描いた外観透視図があります(図4)。図面の左下隅に、「満州ニ建ツ停車場案」とありますが、駅名も描かれた目的も不明です。正面に大小3連のパラボラアーチ、隅角部の塔には幾何学模様の装飾などが施されたアールデコでまとめられています。また年代が不詳ですが、頂部をパラボラアーチとしたビルのスケッチも残されています(図5)。

図4

図5

ただし、このビル1階左側の庇は唐破風、右側は入母屋破風を連想させる形態です。日本的な意匠との融合を試みたのかも知れません。この他、後述するように、表現派や山小屋をモチーフにした多彩な意匠を行っています。ちなみに、本間「乙彦」は通名で、本名は「弟彦」です。

●建築様式 近世式・アールデコ・表現派
「近世式」は、簡略化されたルネサンス様式や古典建築系の立面構成などを示す様式で、「近世復興式」ともいい、
大正年間以降、多くの建築家に用いられました。
「アールデコ」は、「アール デコラティフ」(仏語)の略語で、1925年にフランスで開催された「国際装飾美術博覧会」に由来することから、「25年様式」ともいわれます。デザインモチーフには、幾何学図形などが用いられますが、エジプトやマヤ文化などからもデザインソースを得るなど、一種の混合様式といえます。ライトは、旧帝国ホテル(明治村)(図6)でマヤの装飾を取り入れていますので、芝川ビルの意匠は概ねアールデコといえます。この様式は、大正末期から昭和初期、ちょうど芝川ビルが竣工した頃に流行しています。

図6

もっとも、筆者などは、アールデコと聞くと、中之島の「水晶橋」(昭和4年)(図7・8)のような意匠を思ってしまいます。

図7

図8

このような形態からすると、芝川ビル塔屋の壁面に施された装飾と照明器具は、幾何学形態のアールデコと判断されます(図9・10)。

図9

図10

後述する「表現派」は、表現主義のなかにおけるグループの一つに由来します。表現主義は、20世紀の初頭にドイツを中心に広がった美術運動ですが、表現主義の建築を代表するグループとしてドイツ表現派とオランダのアムステル派があります。ドイツ表現派の代表的作品としては、B・タウト「ガラスの家」(図11、1914年)やE・メンデルゾーン「アインシュタイン塔」(図12、1924年)が掲げられます。

図11

図12

我が国で表現派という場合、ドイツ表現派を指すことが多いようです。意匠としては、鉄やガラスなどの素材がもつ性質やイメージを生かした表現や、流動的な表現も行われています。ただし、日本における意匠はこれらの純粋な形態ではなく、「それらしい」ので、「・・風」もしくは「・・的」などをつけるのでしょう。なお、B・タウトは、『日本美の再発見』の著者として有名です。

■本間の建築作品■
本間は、昭和4年3月に都島工業学校を退職したようです。その頃の本間の作品を見てみましょう。


●現存するもの
小川香料(昭和5年=1930)〒541-0046大阪市中央区平野町2-5-5、登録有形文化財(図13)

図13

小川香料の新築工事設計書(昭和5年7月)には、「小川氏ビルディング」とあり、当初は小川ビルと称されていたこと、竣工は同年7月以降であることが分かります。当ビルの水平線が強調された外観は、1930年ごろの新しいスタイルで船場に新しい都市風景を生み出したとされています。この評価は、現在の正面のデザイン、色調、仕上げ材などの統一感などによるものと思われますが、建築当初は3階建てでした(図14)。

図14

増築された時期は不明ですが、両者を見比べても全く違和感がありません。様式は表現派風とされていますが、1階の欄間や照明器具の形態をみると、アールデコの要素も含んでいると思われます。

天王山農場(現レストハウスまきば) 〒651-2311神戸市西区神出東1180(図15)

図15

天王山農場は、『住宅』昭和12年10月号に「大西邸−明石天王山農場」として掲載されています。現在は、周囲の樹木が大きく成長したため、全体が見えにくいですが、山小屋風の外観、内部の吹抜など当初の形態がよく残されています(図16~19)。

図16

図17 平成25年9月

図18

図19

●現存しないもの
松竹アドビル(昭和9年)
心斎橋筋の戎橋南東部、現在のかに道楽の位置に松竹アドビルがありました(図20・21)。ガラスやタイルなどの素材を多用した意匠であることから、ドイツ表現派に沿った意匠とみられます。

図20

図21

また残されたアドビルの透視図、から、設計変更を経て完成したことが分かります(図22・23)。

図22

図23

設計図によると、入口周辺には装飾レリーフが施されていました(図24・25)。

図24

図25

丸万食料品店(昭和2年)
アドビルの南側に丸万食料品店がありました。図26はどの時点で描かれたかは不明ですが、アインシュタイン塔に似た意匠は、表現派の範疇に入るでしょう。様々な様式を自在に使いこなし、多彩な意匠の建築を生み出した本間の時代感覚の鋭さが窺われます。ところで、丸万食料品店の建築年・設計者について、『日本近代建築総覧』や『近代大阪の建築』には「昭和4年・錢高組」とありますが、スケッチ左下隅の「OHomma」のサインから、本間の設計と考えられますし、本間の主な仕事にも「丸万食料品店」が掲げられています。

図26

■閑話休題■
●設計者の違いについて
例えば、大阪スタジアム(難波球場)を設計した岩本博行(竹中工務店)は、「・・外観がうまくないというので、坂倉建築事務所に頼まれたわけですね。それを担当したのが西沢文隆先生だったんです。・・プラン、断面までは私、エレベーションは西沢先生。」ということを話されています(*7)。ちなみに、「大阪スタヂアム」で検索した記事では、設計者は「坂倉準三」となっています。昔はこのようなことがよくあったのでしょう。

●様式建築
明治時代の建築家は、ヨーロッパの建築様式を一生懸命に学習しました。大正時代になると、欧米の建築の動きが同時的に我が国に入ってきますが、この時代の建築家は、新情報に敏感に反応し、それらを使いこなせる技量を身につけていきます。そのため、大正期以降の建築の意匠は多様になったと思われます。近代建築における様式の判定が難しいのは、建築家が多様な様式を自在に用いたからでしょう。ただ、少し様式のことを知ると、近代建築を味わう面白さも倍増することは確かです。

*1『建築と社会』昭和3年1月号
*2『建築と社会』昭和12年9月号
*3福田晴虔「なにわのパトロンたち」『SPACE MODULATOR 50』所収、1977年
*4*1に同じ。
*5『モダン・シティふたたび−1920年代の大阪へ』昭和62年
*6「モダン建築への招待」産経新聞、平成18年12月27日
*7岩本博行・岡橋作太郎対談「建築家、大阪に生きる」『SPACE MODULATOR 50』所収、1977年

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植松清志

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