大阪都心の社寺めぐり-地域のお宝さがし-15難波神社

■大阪府保存樹第1号のご神木から木霊のパワーをもらおう!■
祭神:仁徳天皇、配祀:素戔嗚尊 所在地:〒541-0059 大阪市中央区博労町4-1-3

■由緒
難波神社は、反正天皇が柴籬宮[しばがきのみや](現松原市柴籬神社、)に遷都した際に、仁徳天皇を祭神としたのに始まり、天王寺区上本町へ移転、さらに、豊臣秀吉の大坂築城に際し、天正11年(1583)に現在地(当時の上難波村)に遷座しました(図1)。

図1

江戸時代には、「上難波仁徳天皇社」(『摂津名所図会』以下、図会)などと称されています。なお、天王寺の社地は「大江の坂平野郷」(『東区史』)で、天王寺南部の平野町(『浪華百談』以下、『百事談』)と考えられています。大坂築城に際し坐摩神社も移転させられており、市中の景観が大きく変わりました。

■江戸時代の様相 西面が正面だった
当社は、寛文6年(1666)12月8日の火災に罹災しましたが(『続東区史』)、享保9年(1724)の妙知焼けや天明元年(1781)3月、寛政3年(1791)10月の火災は免れていますので、寛文6年以後に再建された社殿が、修理や改築などによりながら、『図会』(図2)刊行時(寛政8~11年=1796~99)までその景観が継承された可能性が高いと思われます。

図2

図2には、社殿などとともに多くの参詣人が描かれ、本文には「芝居・観物・軍書読・小売の市店連りて囂[かまびす]しとあり、その賑わいは「座摩神社にひとしく、詣人絶ることなく、社頭頗る繁昌なり」(『浪華の賑ひ』以下、『賑ひ』)と幕末まで続いています。
『百事談』(注1)に記された天保期(以下、江戸後期)の社殿名などを図2に赤字、『図会』刊行以降、江戸後期までに増えた施設などを青字(丸付)、『図会』本来の記載事項を緑字、その他を紫字で示しました。

注1)著者の姓名など、詳細は未詳。著者は、天保初年に難波神社付近で生まれ、天保・弘化期(1830~47)に幼少年時代を過ごしたようで、明治25~28年(1892~95)頃の大阪の事柄が記された同書は、著者60歳頃の作品と推定されている。

西側の鳥居と門を潜ると、左手に博労稲荷(図中ハ)、末社(ニ)、右手に井戸屋形(カ)、絵馬所(ヲ)、正面の一対の大きな狛犬の向こうに、入母屋屋根[いりもややね]の平側[ひらがわ]軒先に唐破風[からはふ]が設けられた楼門形式の拝殿(レ)、その奥に、拝殿同様の屋根形式の本社(タ)が配されています。西側道路の「上難波町表門鳥居」、東側の「御堂筋裏門」の記載から、西側が正面であることが分かります。境内の四周には、住吉神社のような「大社にあらねば建てがたき」鳥居が建てられていました。
 社殿名と位置を比較(変更された施設には丸付)してみると、勲一等社(イ)は、『図会』では「霊府社」とあります。この社殿は、江戸後期には、「博労稲荷神社の西の方に列せ」られていたようです。一方、南側の鳥居付近の末社(ホ)は、『図会』では「霊社・菟道王社・比売許曽」と記され、本文にも勲一等若宮は、「本社の左にあり、菟道稚郎子[うじのわきいらつこ]命」を祀るとあります。これらから、菟道王社は江戸後期には独立した社殿として(イ)に鎮座していたのでしょう(ただし、(イ)の位置は、博労稲荷の東側ですが・・・・)。社務所(ネ)は、芝居(ル)の南に移り、社務所の跡地に建てられた芝居では歌舞伎、東側の芝居(ワ)では文楽の興業が行われました。御供所(ソ)は、神楽殿(リ)の南に移っています。
 ここでの注目は、井戸屋形(カ)です。この屋根は、阿波堀解船屋から奉納されたもので、「浅野内匠頭が、本国より大坂蔵屋しきに来るとき乗ぜる」御座船の屋根で、浅野家の定紋「丸にちがひ鷹の羽の彫もの」もありました。御座船の唐破風屋根(図3、復元日本大観4『船』)を見るとなるほどと思わせます(注2)。

図3

このように、寛政期の景観は施設の移動を行いながらも江戸後期まで概ね継承されてきましたが、文久3年(1863、以下幕末)11月の火災で、博労稲荷が罹災します(『大阪編年史24巻』)。他の施設が罹災した記録は見当たりませんが、火災の状況を描いた絵図を見る限り焼失したものと判断されます。

注2)相楽園(神戸市)には、船屋形(重文)が保存されている。

■明治時代直前 南面が正面となる
当社の社殿配置について、「今度の再建に南面に転ぜられしは、如何なる故か」との疑義が出されています。疑義を出したのは、『百事談』の著者です。著者の推定年齢などから、「今度の再建」とは、幕末の罹災後の再建とみられます。つまり、当社は幕末に焼失し、南面を正面として再建されて明治維新を迎え、明治5年に郷社、同8年に難波神社と改称、同34年に府社となります。再建後の社殿の近代神社への変更時期は、府社に昇格した明治34年以降と推察されます。

■現代の景観
明治後期の社殿は、昭和20年(1945)3月の空襲で焼失し、同49年に現在の社殿が再建されました。南面が正面です(図4)。

図4

社殿は高い基壇上に建てられています。拝殿は入母屋屋根の平側の軒先に唐破風、その上部に千鳥破風[ちどりはふ]が設けられています(図5)

図5

唐破風の下をみると、下段の虹梁[こうりょう]の中央に蟇股[かえるまた]、上段の虹梁下部の眉[まゆ]、左右の袖切り[そでぎり]、上部の菖蒲桁[しょうぶげた]上部の輪垂木[わだるき]、下部の笈形[おいがた]、若葉紋様[わかばもんよう]、木鼻[きばな]などは木造の形態を遵守していますが、柱頭部の円形の皿斗[さらと]や溝が彫られた舟肘木[ふなひじき]などに、新しい工夫がみられます(図6~7)。

図6

図7

また、『図会』では難波神社を「博労稲荷と称するハ訛[あやまり]なり」とある一方で、幕末には「俗に博労の稲荷といふ」(『賑ひ』)と、混同されるほど人気が高かった博労稲荷も健在です(図8)。

図8

また、大阪府の保存樹第1号のご神木もすごい迫力です(図9)。

図9

■閑話休題■
 江戸時代西向きだった当社の正面が南向きになったのは何故か。これについては、当地に遷座した際、社地の西面道路が主道路であったのではないのか。南面については、当社の江戸時代の祭礼の一つに、5月5日の博労稲荷流鏑馬[やぶさめ]が参考になりそうです。この流鏑馬は、博労町通りと東の三休橋筋の間で行われるもので、大変賑わったようです。つまり、神事の際に境内の南側が重要なハレの空間となったのです。そのため、幕末の火災後の再建に際し、社殿を南向きにしたのではないかと妄想しています。ところで、図9のご神木、図2の本社右側に描かれたご神木に樹形が似ていると思いますが、如何でしょうか。

【用語解説】
・入母屋屋根:寄棟屋根と切妻屋根を合わせた屋根。
・平:棟と平行な側。
・唐破風:向拝などに設けられる、中央部が起り、両端部が反っている破風。
・千鳥破風:屋根面に設けられた切妻の破風。
・破風:屋根の妻側などに山形状に取り付けられる板や付属物の総称。
・虹梁:社寺建築などに用いられる、中央部に起り[むくり]をつけた梁。
・蟇股:虹梁などの上に配される、かえるが股を広げたような形式の部材。
・眉:虹梁などの下部に施された眉形の彫刻。
・袖切り:虹梁左右端の薄く欠き取られた部分。
・菖蒲桁:唐破風などの破風板を支えている桁。
・輪垂木:唐破風などに用いられる湾曲した垂木。 
・垂木:屋根の仕上げ材や下地材を支えるため、棟木から母屋・軒桁に架け渡す材。
・笈形: 大瓶束などの左右に施された装飾。
・大瓶束:瓶[へい](口が小さく、胴が細長い徳利形の壺)の形をした束。 
・若葉文様:植物の葉を図案化した模様の総称。
・木鼻:貫[ぬき]などが柱から突き出た部分。動植物などの装飾を施すことが多い。
・皿斗:柱上部に設けられる薄い皿形の斗。
・舟肘木:柱頭上において、桁などを直接受ける肘木。

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