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#254 熟年恋愛、その先にあるものは?

2024年5月3日(金)の日記

木曜日の羽鳥慎一モーニングショーで「孤独死だけは怖い。中高年の婚活バスツアー」という企画をやっていたらしいが、あいにく他の番組を見ていたので見逃してしまった。
私も最近のブログでちらっと取り上げた話題だが、
「2050年には5軒に1軒が65歳以上の高齢者の一人暮らし世帯となる」(厚生労働省の推計)というニュースをもとに、中高年婚活に密着したらしい(まー、どこかしらの情報番組でたまに特集されてるけど)


中高年の婚活

参加者全員と必然的に会話をしなくてはいけないカップリング企画は、過去に一度だけ参加して、相当疲弊するものだと痛感した。団体行動が苦手で、なおかつ、あまりモテない女はメリットがないこともわかっている。
なのでひなたぼっこは、こういった日帰り旅行企画とかカップリングパーティーとかほとんど参加した事はないのだが、3時間位の散策イベントならなんとか可能ではある。でもそれも、マーと付き合いだしてから土日が拘束されているので、最近はめっきり行かなくなってしまった。

ここで興味があるのは、同年代の皆さんがどんな感じなのかということ。同窓会でもない限り、自分と同年代の人は最近ほとんど見かけないので、今の自分って客観的にみてどんな感じなのかな?とちょっと比較してみたくなる。

今検索してみたら、YouTubeにアップされていたので早速視聴😀
昨日の「羽鳥慎一モーニングショー」以外にも、過去の似たような企画が出るわ出るわ…思わず何本も見てしまった。

それにしても…。

え〜?!私より歳が下なのにこんなにふけちゃってる?
いや絶対、女性はテレビ用に年齢サバ読んでるなこれ。本当はもっと歳いってると思うんだけど。
実年齢だとしたら…もう50代以降って、結構やばいのか?
生活環境とか介護とか仕事内容とか病気とか遺伝的なものとかで、かなり個人差が出てくる年代である事は確かではあるが。

男性も、もうちょっと工夫すればいくらでも若々しく見えるのに、なぜかすごく老い見えてしまう人もいたが。
顔の問題ではなくて、髪型とか、髪の色とか、服装とか、姿勢とか、話し方とか…。
ていうか、きっと私もそうなのだろうけど、指摘してくれるのは今はマーくらいしかいないので、周りの人から自分がどう見えてるのかわからないのが残念。

その後、マーと一緒に何本かの婚活バスツアーを視聴してみたら、私より老けて見えると思っていた同年代の女性は、マーから見たら同じくらいに見えるとのことでショック。
自分だけがまだ若いつもりでいたのだが、やっぱり客観的に見ると想像以上に経年劣化してるんだな〜😓

いつかは人ごとではなくなる

それよりも気になったのは、この番組を見た人たちの感想。
エックスでの書き込みをいくつか引用してみるとこんな感じ。

「孤独死したくないから参加しているというのは少し引っかかる。守備よくうまくいっても自分が先(に死ぬ)とは限らないだろう。目的が違う気が。」
そうそう!その通り。
伴侶が先に要介護になったらお世話もしなきゃいけないし…。結局、また自分1人になったら婚活しなきゃいけないってわけ?死ぬときはみんな孤独なんだから。

「参加理由が、孤独や孤独死が嫌とあったけど、歳を重ねたら慣れるor諦めるってわけでもないのね」
歳を重ねれば重ねるほど、死が近くなればなるほど、体力の低下とともに気力も衰え、さらにはメンタルも弱っていくものなのさ!
だって、健康で若い時は気力もあるから、ネガティブなことなんてあまり考えないじゃん!1人は自由で良いとか気楽だとか、そっちのほうに目がいきがちだけど、だんだん変わっていくものなのだよ。

「中高年の婚活バスツアーはきもい。介護相手探しかよ。離婚するって事はそもそも結婚に向いてないんだよ。」
だよねぇ〜😒
でも、そういうあなたの将来はどうなるのかしら?

「孤独死はしたくないって、どうして自分が先に死ぬことが前提なんだろう?今から介護の負担を背負うかもしれないのに」
だよねぇ〜😑
それも覚悟の上での婚活なんだろうね。どっちが介護者になるかはわからないけれど、それも受け入れないと婚活には進めない。少なくとも、お互いの親の介護からは解放されてる年だと思う。

「今結婚や子供いらないって言ってる人たちの将来の姿がこれで溢れる未来予測可能だよなぁ。結局今楽しいツケを歳とってから払うみたいな感じにしかならんのやなって思う。きつめに言えば人生負け組確定やんな」
よくわかってらっしゃるっ!
でもそれも、人生。
負け組かどうかは本人が決めることだろうけど、ある意味それも覚悟の上で独身を貫いている人もいるでしょうし。
若いうちにいっぱいお金貯めて、高級シニア向けマンションで同じような人たちと暮らすとか、家賃がかからないように自宅を購入するとか、マーのように将来は山が見える田舎で質素に暮らすという選択肢もありかも。ちゃんと将来設計さえできていれば、家族がいなくても問題ないでしょう。
ただ、精神的な孤独は歳をとれば必ずやってくる。

「中高年から一緒に住むのって大変そう。60歳まで1人で暮らししてたとこに、寂しいからって理由で他人入れるの無理くない?生活リズム狂って揉めそう」
そ〜なんだよ。そうそう!まさにそれっ!!
そこが私の1番のせめぎ合いのところで、
「1人だと気楽、他人が入るとストレス」VS 「1人だと寂しい、2人だと楽しい」
ここでずっと揺れている。

「くっついても死体が増えるだけとか危ない考えになってしまう」
笑笑。
ものすごい歳の差婚でない限り、年齢の近いもの同士だとそうなっちゃうよね。でもさぁ、どっちかの健康寿命が尽きるまでの数年間か十数年かわからないけど、ちょっとでも刺激的でちょっとでも楽しくてちょっとでも充実していれば、もうけもんじゃないかな。

女性の健康寿命の平均は75歳位か?
相手も自分も元気でいる期間が長ければ、おいしいご飯を食べに行ったり、旅行に行ったり、共通の趣味をやったり、まぁいろいろできるから。ずっと1人でテレビ見ながらぼそぼそとご飯食べるよりは、パートナーとおしゃべりしながら一緒に食事する方がいいのかも…🙄

ま、価値観は人によりけりだけどね。

老害にはなりたくない

前回のデートで、マーとがん保険とか入院保険の話題が出た時だったか?マーは損得勘定をした上で、あらゆる保険に加入しないスタンスでいる人だ。ひなたぼっこは心配性なので、入院保険、自転車保険、がん保険、損害保険と、いずれも安いものだが入っている。実際、入院保険とがん保険は、数年前に使う場面があったので元はとれたのかもしれない。でも保険料は年々上がっていくわけで、70歳を超えたらがん保険は必要ないかもしれないなぁ。

ちなみにマーは、ものすごく世の中の役に立っている高齢者でない限り、若い世代に迷惑をかけないためにも、早く死んだほうがいいと思っているらしい。
それは私も同感だ。

そして、脳梗塞とかで倒れて要介護状態になるくらいなら死んだほうがマシと言っているが、アキヒコも以前同じようなことを言っていたなー。誰かに下の世話をされるようになるくらいなら殺してくれとか。

私が子供の頃に見た映画で、人間の欲望として出てくるものに、永久に死なない薬とか「不老長寿」とかそんなテーマのものがあったけれど、今の時代は長く生きることこそ苦痛でしかない気がする。
長生きしたいなんて思ってる人いるのかしら?って思ってしまう。
高齢者の福祉制度がいき届いている別の国ならまだしも、日本でこの先70歳80歳となっていった時、年金だってもらえるかもらえないか分からないし、人口減少とともに現役世代の働き手が減っていくわけだから、20年後の自分がどうなっていくのか先が読めない。

長く生きたいと思えるような豊かな国だったら、そして明るい将来しか見えない国だったら長生きしたいかもしれないけど。
何の保証も見えない、お先真っ暗とは言わないけれど、希望の持てないこの国の未来。
とにかく、どんなに健康でも、長生きしてしまうとお金がかかる。
お金の不安が全くない人や高齢者でも世の中に貢献している人はいいとして、そのどちらでもない私は、極力現役世代の人たちの迷惑にならないように、なるべく早くこの世から退却したいと思っている。

理想的な死に方としては、ピンピンコロリだと心の準備ができないままなので、やっぱり自分の余命がわかっている方が身辺整理もできるし、大切な人とお別れもできるし、ベストじゃないかな。

老衰で眠るように死にたい…なんて思ってる人もいるかもしれないけど、老衰に至るまで数年間は、ほぼ要介護状態だし、認知症になってる可能性もあるし、誰かに下の世話をしてもらわなくていけないし、もし老人ホーム的なところに入ったとしたら、結構お金もかかってしまう。

そう考えると、やっぱり癌がいいのかな〜。
70歳過ぎたら、もう癌検診もやめて、がん保険も解約して、生きることに執着せず、流れに身を任せてもいいのかな。

5月3日憲法記念日 新聞の社説より

朝のTBSラジオ「森本毅郎スタンバイ」の中で、この記事のことを取り上げていて、実際に読んでみて心に残ったので貼附してみる。

 「洞窟の比喩」というエピソードが古代ギリシャの哲学者プラトンが著した「国家」にあります。洞窟の奥にいる囚人たちは、振り返ることもできない状態で縛られています。入り口の方にかがり火が燃えていて、人々を背後から照らしています。
 動物などの像が火にかざされると、洞窟の壁に影絵が映ります。囚人たちはその影絵こそ真実だと思っています。
 でも、ある1人が束縛を解いて、洞窟の外に出ようとします。光源の存在を知り、やがて太陽の光を浴びることになります。そこで見る世界は洞窟の影絵とは似ても似つきません。
 その1人は洞窟の奥に戻り、囚人たちに自分が見た世界を語ります。でも、洞窟の囚人たちは誰もその話を信じようとはしません。何しろ、自分が見ている影絵こそ真実だと思っているのですから。
◆暴政を見ている10年間
 この10年間、私たちは囚人のように洞窟に閉じ込められ、政権が都合よく映し出した影絵を見ているのではないでしょうか。
 「閣議決定」で政府が思い通りの政策を推し進める政治風景のことです。まるで憲法を無視するかのように、国会など存在しないかのように、主権者たる国民も蚊帳の外であるかのように…。
 安倍・菅・岸田と続く政権下では、憲法の解釈も、法律の解釈も、内閣が自由自在に変更してしまいました。戦後積み上げた政府答弁も自分たちの都合のいいように簡単に覆してしまいます。
 息のかかった高検検事長を定年延長したり、日本学術会議の会員を任命拒否したり。老朽原発の運転延長も国会の議論をほとんど経ずに閣議だけで決めました。
 国権の最高機関は国会なのに、さながら政府の追認機関になっています。憲法が想定する三権分立の民主主義とは異なります。まるでプラトンの「洞窟の影絵」のように、当たり前の光景になっている、それが心配です。
 内閣とは法律を誠実に執行する行政機関で、国会は唯一の立法機関です。法律はときに国民の権利を制約しうるので、国民の代表者である国会だけが立法できると憲法に定めています。
 ですから内閣が勝手に法の枠や解釈の枠を踏み外してはなりません。憲法は主権者たる国民の側に制定権力があり、政府は憲法に拘束される側ですから、身勝手な解釈変更など許されません。
 それが三権分立の本当の姿です。でも、この10年、単なる閣議決定で憲法や法律が読み替えられています。これは暴政です。
 出発点は2014年の夏。集団的自衛権の行使容認を安倍内閣が閣議決定した時です。専守防衛のはずの自衛隊が他国の戦争に介入できることになったのです。
 百八十度の大転換です。平和主義を定める憲法9条から逸脱しています。法治国家では法の整合性や連続性が求められますが、壊れてしまいました。
 それからは安全保障の重要案件の多くは、閣議で決定されていきます。敵基地攻撃能力の保有や防衛費倍増、高性能の次期戦闘機を他国に売ることも…。
 でも、そもそも閣議決定とは閣僚の合意事項で、法律を超える法的拘束力はありません。もし閣議決定に法的効力を認めるとすれば、内閣が勝手に法律をつくるのと同じです。国会はいらなくなります。やはり暴政なのです。
 しかし、最近は世論の反応も鈍くなっているのが残念です。14年から15年の安全保障関連法の成立当時は、「憲法違反だ」と多くの国民が怒り、国会前で抗議のデモ=写真、本社ヘリ「あさづる」から=を繰り広げました。
 今は政府により既成事実が積み上げられて、無力感が漂っているのでしょうか。抗議の声も鳴りをひそめがちです。
◆「考える」は戦う精神だ
 冒頭の「洞窟の比喩」は、批評家・小林秀雄の「考えるヒント」(文春文庫)にも出てきます。
 <彼等(ら)は考えている人間ではない(中略)巨獣の力のうちに自己を失っている人達(たち)だ> 
影絵を真実と思っている洞窟の囚人たちのことでしょう。だから、自ら考えねばなりません。小林秀雄は「考える」営みについて、「どうあっても戦うという精神である」と記します。
 <プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である>
 影絵のような名ばかりの民主政とは、どうあっても戦う。そんな精神を持ちたいものです。

東京新聞


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