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賢くあるよりも優しくあるために、理解する【天才を殺す凡人に書けなかったこと】

「人の可能性を阻害している、1本の境界線をなくしたい」

しかも、それを楽しく、90分で読める物語で描きたい。そうやって生まれた本が『天才を殺す凡人』だ。だが、天才を殺す凡人には直接書けなかったテーマもある。その1つは「理解すること」だと思う。この本は実質的には

・人はなぜ理解しあえないのか

を描いた作品だが、その根底にあるのは「理解とは、目的にもなりえるし、手段にもなりえる」ということだ。たとえば、人が、誰かをラベリングするとき、それは目的になりえる。あの人はA型だ。あの人はO型だ。それはそれでエンターテイメントとしては楽しいが、本質的な価値は弱い。本来、理解することの本質的な価値とは、生理的な感情を超えられることにある。

以前、Voicyでこう話した。「共感は感情」「理解は知性」と。

人が動物である限り、「生理的な感情」はゼロにすることはできないし、むしろ、大事にすべきだと思う。一方で、生理的な感情だけでは、人は「自分と異なる種族」を排他してしまう傾向にある。あるいは、生物的に弱い生き物を排斥しようとしてしまう。これは危険を避ける、動物的な本能に近い。

だが、理解は違う。人が人である理由の一つは「知性」にあるのは間違いないが、その知性は後天的に習得できるし、意思によってコントロールができる。小さい頃から「なんのために学ぶのか?」がわからなかった人にとって、今になりやはり、思うのは、結局、人が学ぶ理由とは「賢くあること以上に、優しくあること」なのだと思う。

A型や、O型。血液型と同じように、英語と日本語、言語と同じように、創造性・再現性・共感性という異なる軸を持つ人間がいること。それを理解し、尊重すること、それは感情だけでは絶対にできない。知性を必要とする。

・人はなぜ理解しあえないのか

必要なのは共感ではなく、理解。そして共感は感情、理解は知性なのだと思う。


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