生活人

目標を、立てました。単なる自己分析に留まるかもしれないのは、お許しください。

私は、もしも日本かドイツか、この世界のどこかで生活していこうとするならば、ただ、ある人と共に暮らしていきたいと思うのです。

自惚れた希望を口に出せる身じゃないのは重々承知ですが、こうやって夢見て生きていくのが私の本分であるようで、背反する間抜けっぷりをさっそく見せつけて仕方ないけれども、あの人となら、生活ってものに適して暮らしていけるんじゃないかなんて、甲斐のないことを思って自己向上に努めて参りたいのです。

お互いが自由なまま、いたい時にそっと寄り添って毛づくろいできるようなあたたかさを持って、私はまだ生きていていいような気がします。あの人を悲しませるのだけは嫌なんです。あの人に幸せでいて欲しい。その道中で、私と挨拶を交わしてくれたら、そんなにすてきなことはないでしょう。

恋愛とも、友情とも、先輩・後輩関係とも言えない、呼び名は付けたくない、あの居心地のよさが、続いてくれたらいいのに、ただそれだけでいいのに、それが死ぬほど難しいことに思われます。

だからむやみやたらに期待して、後で取り返しのつかないほど精神を傷つけられるのを怖れて、一体どれだけのことが実際にできるのかはわからないけれど、私はあの人のことをいつでも感じていて、忘れて生きていくことなど金輪際できそうにありません。好きですという使い古した言葉を用いずとも肌で感じられるくらいそばで、ああつまり、生きていたいのだと思います。

小さな部屋に、茶色い地球儀を置いて、もしあの人が望むなら消化器と、それを入れる箱を置いたっていいでしょう。それでスペースが足りなくなってしまったら、ひとつのベッドを二人で占領して眠ればいいと思います。あの人が落ちるのが心配なので、あの人には壁側で寝てもらいたいところです。
古い安アパート以外の選択肢が望めるのであれば、ハンモックをぶら下げて、ごろごろしたいものです。星が綺麗に見れるといいですね。

生活人に近づくためにどうしたらいいのか、思いついたことを、並べてみます。

まず、料理。
これが真っ先に出ました。
妹が高校中退して料理人への道を歩む気でいるからというのもあるかもしれない、私は自分と真逆で生活に根付き、他人への愛嬌を忘れない妹を、純粋にすごいと思っています。比べられることを嫌悪してもいました。
あるいは、先日たまたま鍋で炊いた米が我ながら美味しかったことに喜びを見出したからかもしれません。自分で自分を褒めてやりたくなりました。

私は料理をする際に、分量を量ったことがありません。勘でどうにかなってしまいます。調味料の種類もわかりません。これでも、東京の寮で二年間丈夫に生存できてしまったのですから、料理が必須事項だとは思わないのですけど、私が今までしてきたことは「生存」であって、「生活」ではなかったと反省しております。

明日は、妹に私でも作れそうなレシピを尋ねてみます。アジアショップで調味料を物色してきます。とりあえず体が醤油を恋しがっているようなので。

ドイツの田舎町である私の滞在地までもし本当にあの人が訪ねてくれるのなら、お気に入りの川を見下ろせるレストランで一晩食べる他は、私が料理を作ってみせたいとも空想しております。それに、ちょっとしたカクテルなら用意できます。

あとは、経済が浮かびます。
金の話はさっぱりわからないものですけれど、生きていくには最重要事項らしいですね。
社畜になるよりは野生児になりたいという思考の私は、ドイツに着いたらすぐサバイバルナイフを買う予定だったのですが、あいにく丁度いいのが見つからなかったので、人間化を促されたような拍子抜けの気分です。ちょっとはその波に従って流されてみようかと思います。

大学の同期が株で稼いだのどうのと盛り上がっているのも、私には無縁のことでした。無知ゆえに興味も湧かなかったわけです。
たとえ稼ぎが麻雀に消えていくのだとしても、脳味噌ひねって金を儲けたこと自体、尊い事業だと思います。彼らを尊敬していました。

それから、政治。
ドイツでは、酒のつまみに政治です。日本では煙たがれていたのが馬鹿馬鹿しいです。政治活動に携わっていると告白することですら、神妙極まりないカミングアウトの風采を帯びるのは、滑稽なミステリーのようでした。

メルケル首相が4選っていや、そんなに長期間首相勤めていたのだっけ。首相と大統領の違いも危うい、中学時代の資料集まで記憶を遡らなくてはならない。南ドイツのこの地でも意外にAfDが躍進した、CDUとCSUが…舌がこんがらがりそうになります。知らなきゃ思想を持つこともできません。私はもうちょっと勉強する必要があります。

社会に組み込まれている責任、みたいな呪文は大嫌いですが、多くのことを知っていなければ守りたい人を守れない、そもそも出逢いも得られないわけですから、精々近づく努力はしてみた方がいいのだとわかりました。私はあの人の前であんまり無知を晒したくはないですし。こんな風に自分に見栄があると発見することも、他者の存在ゆえだから少しは喜ばしい次第です。

あとは、あの人が好きな演劇について。
本はある程度読むけれど、脚本という響きは新しかったもので、顔を輝かせてあの人が語る話題についていくことのできない自身の浅はかな知識に、寂しくなりました。それまでの関心領域に、演劇はなかったのです。

ドイツへ行く前にたった一度、あの人が演技している姿を見ました。生き生きしていました。もっと観ていたかった、あの本気を受けていたかった、それなのに次の公演をする頃には私は一人でドイツにいました。あれっきりは嫌です、もっともっと欲しい。次があると思いたい。
どうにかこうにかWi-Fiを繋げて調べてみたところ、所属する劇団の公演は終えていたようでした。お疲れ様。誰よりも観たかったのはこの私だと思います、その根拠なき執着はきっと誰よりも勝っています。

演劇とは違うけれど、一度太宰治の『新ハムレット』を読んでみてほしいなあと思います。ぜひ感想が聞きたいものです。台詞がねちっこいけれど、あんな調子の小説は演じることが可能なのだろうか、知識不足の私には見当もつかないのですが。愛するなら言葉は必要ない。愛しているのだからこそ言葉が大事だ。あの人はどちら派でしょうか。

まだまだ、私から抜け落ちていて、生活に求められるもの、というのは書き出せばキリがないのですが、冗談でなくキリがないので嫌気がさして不貞腐れる前に、よし明日は米を炊いて料理を作ってやろう、という健気なモチベーションを残して眠りにつこうと思います。
日本では、おはようございます。


#エッセイ #小説

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