『君の名は。』

高級イタリアンレストランにて、私は待っていた。

無限に続く喧騒の中で、ミラノ風ドリアが50皿を超えて提供される。赤と白のワインボトルは机上に乗り切らない数ほどあり、それに伴って学生のノリもタチが悪くなる。まれに注文されるミラノ風ドリア以外の料理をどの卓上に載せればいいのか店員は困惑し、ベタベタになったテーブルを拭くための紙ナフキンも散乱している。以前悪酔いしてミラノ風ドリアを他の客に投げつけ出禁になったとかいう先輩方も、このカオスな現状を機に紛れ込んでいる。一団体でこの有り様なのだから、私は生まれ変わってもここの店長にはなりたくない。

そこに一際目立つ姿があった。黒い学ランに身を包み、むさ苦しい男子学生に囲まれながらも彼らに引けを取らない強い姿勢で長ソファの真ん中に陣取る人物。他の女子たちに話しかけられ崇められながら微笑む黒髪の少女。これが、彼女との出会いだった。

それと同時に私は躊躇した。悟るにはあまりに充分だったのだ。スゴイ新入生がいるという情報を、私はこのとき以前から何度も耳にしていた。そのため既に二回、彼女と会うためにこのイタリアンレストランで待っていたことがある。けれども彼女は渦中の人物であり、多忙であるらしかった。一度目と二度目は彼女に会えないまま店を去るしかなかったのだ。三度目のその日、ようやく彼女の姿を目にしたが、それでも話しかけにいくことは困難だとわかった。

まず、彼女があまりに可愛すぎた。噂は聞いていたしピンボケの写真も友人から見せてもらっていたが、実物は想像以上の可愛さだった。ちなみにこれは私が彼女に本格的に惚れてしまう前の、極めて客観的な第一印象である。形容詞は主観であることが常である、という方程式を覆すような圧倒的可愛さが実在したのだ。私はまずそんなことに驚いた。

それに、取り巻きが多かった。多すぎて彼女の姿が見えなくなるくらいだった。男子は好奇心と性的関心で彼女を取り囲み、女子は好奇心と尊敬の念で彼女を取り囲むのだ。私はこの光景を部外者として奇妙に眺めていた。

それからこうも考えた。
じきに疲れてしまうだろう。今はチヤホヤされることを悦びとするかもしれないが、そう長く続くものではない。外見と外聞でしか評価されない時代が続けば、彼女自身が道を切り開かない限り、その先へ進めなくなる。私は道中の休憩所のような存在で、彼女だけと出会いたい。

そう思う一方で、私は怯むしかなかった。対人関係を切るつもりでサークルもすべて辞めていた私は、本当は今そこにいるべき人物ではなかった。それに彼女はモテるには違いないし、スクールカーストでいうなら最上位にいれる人間なのは明白だ。一方の私は、カーストにも交わらない放浪者の立ち位置で今までの学校生活を送ってきた自覚があった。私が彼女に話しかけることは、乞食が王女様に求婚する滑稽さに近い。

幸運だったのは、私がサークル無所属とはいえ先輩という立ち位置だったことだ。もし彼女と同学年か下だったら、怖ろしくて話しかけに行くことは叶わなかった。私の存在はお喋りな友人越しになんとなく彼女にも伝わっているらしかったから、それくらいの安心材料があった。

その友人に「話しかけにいけば?」といとも簡単なことのように促された。コイツにできるなら自分にもできるだろうという勇気と、相変わらずの葛藤を抱えながらも、今日どうしても話しかけたかった私は、ようやく彼女の取り巻きが少しばかり離れた隙に、彼女の側へ行った。

「君の誕生日は?」

さすがに一言目ではなかったと思うが、二言目くらいにそう聞いた。私は「なんとなく興味の持てる他者」の誕生日を記憶することが得意なのだ。彼女の答えた数字を大事に記憶の底へ閉まった。縁があるように感じられた。

最初に名前を尋ねなかったのは、とっくにそんな情報は知っていたからだ。周知の事実で、彼女の名前と可愛さが一人歩きするほどだった。

これが彼女との初対面だ。



しかし本当は、私たちは既に出会っていた。夢の中で。

こんな経験は初めてのことだった。私は現実世界で彼女に巡り合うよりももっと前に、夢の中で、彼女の姿を見、会話していた。どこだかわからないけれど、どこかの自動車設備工場のタイヤだかドラム缶の上に黒髪の彼女が座っていた。私は彼女に近づいていく。気心の知れた仲であるように、お互い微笑む。私は彼女のそばに立ち、話しかけた。

そんな夢を見ていた。一度も彼女の姿を見ていないのに、知っていたのは何度も噂で聞いた名前とピンボケの写真に映った姿だけだったのに、店で出会った彼女は夢で見た彼女と間違いなく同一人物である、それがわかった。

彼女の誕生日を聞いた瞬間、私はこの数字の並びが好きだ。何かがある。そうわかったのだ。



東京でも観た『君の名は。』を、ドイツ語でも観た。涙が溢れてあたたかかった。

いいじゃないか。夢を信じたって。あれはフィクションだけではないんだよ。夢から始まる出会いが本当にあったんだ。誰も信じてくれなくたっていい。

現実は小説より奇なり。こんな全身が震える出会いがあって、これを超えるほど美しい小説を一切書けなくなってしまったっていい。

素晴らしい夢が実在するのだと、私は知ってしまったから。

#エッセイ #小説 #映画 #夢 #大学


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