団子三兄弟みたいな雪だるま作りやすいのもわかる

不登校の生徒が学期最終日に通知表を受け取るために仕方なしに登校してくるようなテンションで、輝ない瞳の太陽がちらりと顔を出した。着飾ってるのでもいい、若干の春のおとずれ、うっれしいなあ、なんて能天気な自称ムードメーカーの顔で、三十分以上かかるいつもはバスで通る道を、ひょんひょこ徒歩でいった私がバカだったんだろうか。あっという間に雪景色。

今日は不幸にも一着しかない寝間着のスウェットに純アメリカンなサルサディップの真っ赤な固体未満液体以上の濃厚なチリソースをこぼしてテンションが素晴らしいことになったのだが、そんな悲劇的勢いで冬に凌辱された。


田舎街の冬なんて(一年の七割は冬だ)、カフェに行くくらいしかやることがない。お気に入りのリュブリクーヘン(キャロットケーキ)をその店では初めて食べたのだけど、想像以上にキャロットそのままでそんなフレッシュさは私にも季節にもそぐわなかった。青い目がひょこっと顔を出す。


最近の私は妙に年下を愛している。自分より18歳以上年下とかの、よちよち歩きの幼児たちとじっと目配せし合って、その子たちの母親に気づかれないように秘密の光線を送っている。爽やかに「にたあ」っとスマイルをいただけたら最高である。やけに目が合うのは私の熱烈な視線が功をなしているのか、黒髪黒目のにんげんが珍しいのか、単に動物的認識の成長成果であるのか、どれでもいい、ヨーロッパに住まう人々はそれが普通なのだから取り立てて特別な感情が動くこともないのだろう。ドイツ含め周辺国で見かける赤ちゃんはばかかわいい。本当に、頭がイッちゃうほどかわいい。かわいさの暴力の前に、私は童貞のはにかみ笑顔で佇むばかり。


しかも、しかもだ、かれらは自分がかわいくって愛されるべき存在だと自覚しておる。その通りの客観的事実に違いない。なんだかもう、ぼくは神様からの贈り物なんだからみんなは愛すのが当たり前だよね、と圧倒的透明感に包まれながらアピールしちゃってる。こうも可愛さが神級だと、ほかのことどうでもよくなって尽くしたくなるのもわかる。


不思議なのは、例えば大人がこんなフレッシュな媚を売る存在ばかりだったらとっくに社会は大戦争なのに、これだけかわいい幼児があっちこっちにいても、世界は平和になるばかりに思えることだ。最高のオナニーを成しえるのは、尽きぬけた自己愛なんじゃないか。名前をつけるまでもないけれど私はむだに大人になっちゃったから、あの無垢なかわいさをいたずらに自己愛だなんて名付けてしまう。


ドイツのカフェで、よちよち歩いてこけちゃった、おとこともおんなとも区別のないとにかく可愛い存在者が、一生懸命ハイハイして、泣いてるのだか歌っているのだかわからない雄叫びをあげている。これが日本で実演されることはありえないんだろうなあ。こどものしつけもできない母親はカフェという公的空間に来るべきではない、なんてTweetが何万リツイートかされて物議をかもすだろう。くだらね。



降り積もる雪を淡々と支える老木と、カフェでエネルギー発射させる幼児との、見飽きたはずがまだまだ熱量をもって続いていきそうな光景を、今日も確かに存在したのだなあというアナログ時計並みの正確なカウントで終わらせようとしている今。

南西ドイツは破壊的影響力の主であるアルプスが近いから嘆きが麻痺するほど寒いよ、って地図眺めるだけじゃわからない情報をもっと早く知っておけばよかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?