見出し画像

憨山大師 「費閒歌」


憨山大師

憨山德清(1546年11月15日-1623年1月15日)、俗姓は蔡、字は澄印、号は憨山、法号は徳清、諡号は弘覚禅師、安徽省全椒出身。明の時代の仏教臨済宗の出家者。禅宗の復興に取り組み、紫柏真可とは親友であり、明末四大高僧の一人とされる。憨山徳清は釈道儒を精通し、三教の融合を主張。禅浄双修を提唱し、人々に自性仏を念じることを説き、その思想は禅宗の六祖惠能大師と一致するため、「曹溪中興の祖師」と後世に尊敬される。


費閒歌ひかんか

講道容易體道難 雜念不除總是閒 
世事塵勞常罣礙 深山靜坐也徒然 

道を言葉にするのは容易だが、会得することは難しい。
雑念を取り除かず、世俗のことに常に囚われているのでは、山で座禅しても無駄である。


出家容易守戒難 信願全無總是閒 
淨戒不持空費力 縱然落髮也徒然 

出家することは容易だが、戒律を守ることは難しい。
戒律を守らず、信願がないのでは、髪ばかり剃ったとしても無駄である。


修行容易遇師難 不遇明師總是閒 
自作聰明空費力 盲修瞎煉也徒然 

修行をすることは容易だが、真の師に出会うことは難しい。
自分の考えのみに頼るのでは、どんなに力を費やしても無駄である。


染塵容易出塵難 不斷塵勞總是閒 
情性攀緣空費力 不成道果也徒然 

俗世に染まることは容易であり、俗世を離れることは難しい。
世俗のことを求める心を断ち切らないのでは、道を成し遂げようとしても徒労である。


聽聞容易實心難 侮慢師尊總是閒 
自大貢高空費力 聰明蓋世也徒然 

教えを聞くことは容易だが、謙虚でいることは難しい。
自分が正しいと思い込み、師を尊敬しないのでは、どんなに聡明であっても無駄である。


學道容易悟道難 不下功夫總是閒 
能信不行空費力 空空論說也徒然 

道を学ぶことは容易だが、悟ることは難しい。
悟りを得るための努力をしない、あるいは信じるだけで実践をしないのでは、空論を述べても無駄である。


閉關容易守關難 不肯修行總是閒 
身在關中心在外 千年不出也徒然 

個室に引き篭もって修行することは容易だが、心を見守って修行に向けることは難しい。
身体ばかり部屋の中に居て心が外に行ってしまうのでは、千年引きこもっても徒労である。


念佛容易信心難 心口不一總是閒 
口念彌陀心散亂 喉嚨喊破也徒然 

念仏を唱えるのは容易だが、信心を持つことは難しい。
心と口が一致せず、口ばかり唱えて心が散漫しているのでは、声を嗄らしても無駄である。


拜佛容易敬心難 意不虔誠總是閒 
五體虛懸空費力 骷髏嗑破也徒然 

仏に礼拝することは容易だが、敬う心を持つことは難しい。
五体ばかり動かすのでは、この骸骨を折っても徒労である。


誦經容易解經難 口誦不解總是閒 
能解不依空費力 日誦萬卷也徒然 

お経を唱えることは容易だが、意味を理解することは難しい。
口で唱えるばかりで意味を知ろうとしない、あるいは意味がわかっていてもそれに従って行動しないのでは、日に何萬巻を唱えても無駄である。