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④ 2012年秋 (ビートルズ)

 深夜、湯舟に浸かっていた青年がふとメロディを思いつき口ずさんだ。
 「・・・フーンフン・・・フーン♪」
 急いで風呂場から出ると裸のままスマホのボイスレコーダーにそのメロディを録音した。
 これがのちに「Treasure」となる。

 思いついたメロディをギターで弾きながら歌詞を考えていると、誰も立ち止まってくれないストリートライブの絶望感から、辛辣な言葉ばかり浮かんでくる。
 ストリートライブなんてやめようと何度も思うけど、もう二度と後悔だけはしたくない。もし音楽の道に進むことを諦めて、他のことをして一生食べていくことになった時に、微塵も後悔が残らないように、今はボロボロになるまで続けるしかないんだ。
  今夜みたいに突然メロディが頭に浮かんできて、新しい曲を作る時間はすごく幸せだ。
 やっぱり俺は一生音楽をやめることは出来ないと思う。 


次の週末、大阪駅の改札を出てアンプを転がして歩いていた青年は立ち止まり、ギターの弾き語りをしている男性ストリートミュージシャンをじっと見ていた。

 どうしたらあんなに何人も観客を集められるんだろう?流行ってる曲とか誰でも知ってる曲を歌ったら、立ち止まってくれるのかもしれない。
 
 青年は新しいスマホで「世界一のミュージシャン」と検索して見つけたアーティストのCDをレンタルショップで借りてきた。
 『love me do』
 この曲知ってる!
 『please please me』
 これも聴いたことある!歌えるかも?
 
 青年はビートルズの虜になった。
 
 日が落ちると肌寒く感じられるようになってきた晩秋。 青年は大阪駅でストリートライブをしていた。
 軽くギターを弾きながらアンプの音量を調節し始めると、若い女性二人が彼に近づき、黙ってそれを見ていた。
 二人の観客の立っている場所を考えてマイクスタンドの位置を変えながら青年は挨拶した。
 「どうも、こんばんは!」
 青年の目の前に立っている若い女性2人と少し離れたところから中年女性1人と中年男性1人が拍手をする。
 「ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。」
 青年は観客の顔を見ながら、笑顔で言った。
 マイクスタンドのそばにある水の入ったペットボトルを持ちあげ蓋を取り、口に含んで一瞬頬を膨らまして飲み込み、ギターで軽くジャカジャカ弾きながら話し始める。
 「えー。この場所いいですね。この街灯がちょうど僕を照らしてくれて、ありがたいです。」
 「聴いてください。『In My Life』」
 
 ビートルズを3曲とオリジナル曲を1曲ギターで弾き語りした青年は、満足気な顔で挨拶をした。
 「初めましての人も、いつも聴いてくれてる人も、ありがとうございました。また来週もこのあたりで歌うので、良かったら聴きに来て下さい。」
 拍手するひとりひとりの顔を見て、笑顔でお礼を言う青年。
 「ありがとうございました。ありがとうございました。ありがとうございました。」

 この頃、大阪駅周辺でストリートミュージシャンを応援する人達の間で青年がちょっとした話題になっていた。