見出し画像

ネット大喜利って出題側や採用側にもセンス要るよね的な話

ネット大喜利、最近凄い流行ってるよね。


Twitterを始めとするSNSで専用のアカウントがあったり、ネット大喜利サイトがあったり、それの回答が持ち出されてバズったり、話題になっている人や物に面白い言い回しで意見できるかというのを大喜利と呼んだり。
世はまさに大喜利時代ってやつだろうか。
自分もネット大喜利に参加するのが好きで、サイトに参加して何度か一位を取ったり、アカウントの賞だかに採用されたりもあった。

でも最近になって、なんかつまらないなーと感じるようになってきた。
空虚感とでも言えばいいのだろうか、そこに自分が参加しても意味ない、価値を感じないような感覚を覚えるようになったのだ。
その理由とはなんだろう。
軽く挙げてみると、これらの要素があるかもしれない。

①お題に面白いものが少ない
②面白くない回答ばかりが採用される、または一位になる
③トップ以外が切り捨てられる無意味さ

それぞれについて話そう。

①お題に面白いものが少ない

これは単純明快。面白くないお題に答えようって気にあまりならないのだ。
面白くないといっても様々な要素はあると思うが、

・ワードや場面を限定しすぎていて回答に拡張性が無い
・お題の時点でウケ狙いに走っていて回答に困る
・出題側が求める特定の路線のみの回答を得たいのが見え見えのお題

これらのタイプのお題は面白くないなって思う。
面白くないならそれは答えなきゃいいんじゃね?って言われそうだけど、今ネット大喜利として出されるお題の多くはこのタイプのどれかに当てはまっているのが多いんじゃないかな。
ぶっちゃけ、これらのお題は作りやすい。出題側が回答やそれに準ずる光景を思い浮かべ、それに合わせ作ればいいだけだからだ。
時事ネタなり趣味なんなり、好みの回答が来てほしくてお題を作れば、それに合わせた「上手い」回答ばかりが集まることだろう。
そして、自分はそこが面白くないと思う。

②面白くない回答ばかりが採用される、または一位になる

これ大喜利なのか!?って回答が採用されること、めちゃくちゃ多い。
ただ単に時事ネタやなぞっただけのものや、パワーワードなどと呼ばれる強い威圧的な言葉でゴリ押しするもの。回答している場所を見ると、そういうの狙いの回答がずらっと並んでいて辟易とする。
もちろん回答全体をよく見渡せばおおってなる回答もある。でもそれらはなかなか取り上げられず、これらのゴリ押しばかりが注目を浴び、埋もれていく。

なんでなんだろう。とはいえ、考えられることはある。
論理的に考えるより、一発で面白味を感じられるものの方が楽だし、その方が多くの人が共感しやすい。
いろんな大喜利ムーブメントが起きる中で、これこそが大喜利だと宣伝・拡散されていったのは大きそうだ。

あと、悪いけど、評価や採用する側の知識量にも大きく左右されるとこあるよね。
複雑だったり、あるいは昔のものだったりマイナーなものにかけた回答とかが分かりやすいかな。理解した人なら絶対驚嘆するような回答があっても、それをできなければただの意味不明回答へと成り下がってしまう。特に、若かったりして知識の引き出しが少ない採用側だったりすると顕著だと思う。

「他人が面白ければ正解。理解させられないならお前の負け。」って意見は多そう。社会的に見てそれが正解なのかもしれない。
でも、そうだとすると、論理的思考をかなぐり捨てたそれは大喜利ではなくただの「にらめっこ」ではないだろうか。
にらめっこをしたくて大喜利やるわけじゃない。

③トップ以外が切り捨てられる無意味さ

これは、コンテスト的性質や価値観をとる限り必然なのかもしれないが。
注目を浴びるのは一位だけ。採用されたものだけ。
②でも言ったが、回答全体の中にはそれより面白いのがあるかもしれない。優秀でなくとも個性的なものも。でも、それらには目は向けられないのだ。

回答が多すぎる、もしくは速度が速すぎるのはあるかもしれない。
どんどん移り変わる話題やコンテンツの中で、同じように見えて大量にある回答の中から良いものを探すなんて大変だよね。気持ちよーくわかるよ。
そんな中で、面白いものだけを摂取したい!そんな想いから生まれたのがこの形式なんだと思う。
誰かが認めた一位の面白さだけ摂取して次に移っていけば、面白いものだけで幸せだよね。
でも同時に、他人のつまみ食いの肥やしになるためだけに頭を働かせることに、意味を見出せなくなってしまったのだ。

おわりに

ネット大喜利って出題側や採用側にもセンス要るよね的な、これだけを言いたかったんだ。
自分がいくら考えたって、そちら側の機嫌とセンス次第で苦労も価値もなくなってしまう。これでは何のためにネット大喜利をやっているのかわからない。そもそもこれは大喜利か?という心境になってしまっている。
自分一人がどうするかなんてネット大喜利のムーブメントからしたら些細なことだ。でも、もしもネット大喜利やってるだれかに届くなら、その形式や評価基準について一度考えてみてほしいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?