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『娘について』が問いかける、自他の境

私は人と様々な可能性を分け合って生きている。
例えば男と女どちらの体に生まれるか・障害はあるか・どの国に生まれるか・どんな家庭に生まれるかから始まり、相性のよい教育環境に出会えるか・競争の場に現れる相手が自分より強いか・事故や病気に見舞われるか等。自分は、こうした意思と関係なく割り振られた可能性を何度も掛け合わせた産物だ。そして自分だけでなく、誰もがそうしてできている。私がある可能性を割り振られる横で、私に割り振られなかった可能性を受け取る人が必ずいる。同級生の彼は男に生まれた私で、明日まで生きられなかった彼女も私。こうしてみると、自分と他人の境は曖昧だ。
けれども、私は時に自他をくっきりと分けながら暮らしている。
『娘について』の「私」のように。

『娘について』は、療養保護士(訳注”日本の介護福祉士とホームヘルパーのような資格”)をしている「私」の家に娘と娘のパートナーが身を寄せてくるところから始まる。パートナーの「あの子」は女性だ。社会的弱者・性的マイノリティに対する世間の視線を内面化している「私」は、娘が同性愛者であることを受け入れられない。一体どうして自分とは異質な他人と関わらなければならないのかと、娘と「あの子」に苛立ちをぶつける。そして「私」が職場で介護を担当している、かつて慈善活動家であった女性・ジェンについても疑問を呈す。なぜ時間と金を浪費して他人へ多大な支援をしたのかと。

そんな風に「私」の中で自と他を分けていた視点は、徐々に揺さぶられていく。例えば、経費削減のためにオムツを使い回すような、人を人と思わないような介護への抵抗感。例えば、「私」の常識において他人には決して為されない経済的支援を、「あの子」が娘にしていたと知ること。そういったものが、他人事を徐々に自分事にしていく。そしてついに2つの大きな事件が起こる。もはや施設に利益をもたらさないと判断されたジェンが今よりも劣悪な介護環境へ移送されると決まり、同性愛者であることを理由とした解雇への抗議デモのさなか娘が重傷を負う。
ジェンの移送を止めようとした「私」は「手足を縛られたまま、どこに送られるとも知らずに横たわるあの女性を自分だと思う理由を、どんなふうに説明すればわかってもらえるだろうか」(p.145)と問い、デモの現場では「ここから遠く離れて、なんてこと、あそこでそんなことがあったんだとニュースでも見ているように、他人事のように言いたい」(p.158-159)と葛藤している。

このようにして、「私」は「あの子」やジェンが他人でないことを知る。「理解して受け入れようと努力する必要のない、順調でなんの苦労もない日常」(p.222)が戻ってきてほしいと願いつつ、それが叶わないことを覚悟するところで物語は終わる。

著者はこの物語をめでたしと思っているだろうか。デモについて取材する記者に対して娘がこう語る場面がある。「理解する、しないの問題じゃないんです。理解してくれと頼む問題でもないですし。これは権利じゃないですか。」(p.174)
「私」は娘のこの言葉をそばで聞いたにも関わらず、上記のように”理解して受け入れようと努力する必要”があると思っている。さらに言えば、「あの子」が他人事でなくなった背景には自分の娘の危機=自分の損がある。自分の利益が絡まなければ他人事、でいいのだろうか。デモで娘よりもひどい怪我を負ったのが「娘じゃなくて彼らだったことに安堵する自分を恥ずかしく思う」(p.165)「私」を描いた著者はきっとそう考えていないだろうし、私もそう思う。

自分がされて嫌なことはやめましょう、と小さい頃から教わってきた。
その「自分」に当てはめるのは、割り振られた可能性の産物である「私」だけにしたくない。

#読書の秋2021 #娘について

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