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Today`s songs ごちゃまぜ34


確かに今は混迷期かもしれない。

入り混じって

見通しはつかない。

かなしみが横にいる。

かなしみよ、こんにちは。

そういう時は音楽を聴く。

フラクタル。
フラクタル図形というものがある。


部分と全体とが同じ形となる自己相似性を示す図形。

読んでもよく意味がわからない。
おそらく動画を見た方がわかりやすいかもしれない。でも見てもよくわからないかもしれない。

自分が、この図形の一部になったことを想像してみる。

見ているだけで頭がぼーっとしてくる。

そうすると、私の悩みや考えてることなんて、ちっぽけなものなんだなとなんとなく思えるようになってくる。不思議。



あとは、伊藤桂一さんの詩を読んだ。

私はたまに伊藤桂一さんの詩を眺めることがある。

彼のことを知ったのは村上春樹さんの「ねじまき鳥クロニクル」がきっかけである。

「絶景」

ひっそりと抱きあったまま

谷底へ墜ちてゆく蝶

無常なほどにも美しく

そこに湛えらえている深淵

その上でひらりと別れ

こんどは絶壁に沿うて

なおも相連れして のぼってくる

詩集「定本・竹の思想」

「一見叙景のようですが、そうではなく、私にとっては、自分が落ち込んで行きそうな奈落を、自分へのせめてものはなむけに美的に歌ったものであります。
私はこの詩を得たときに、この詩の行く手を探求してゆけば、まちがいなくひらかれるに違いない詩の世界を予想しましたが、その代り自分を殺してしまいそうな危険をはっきりとかんじました。これ以上進むとあぶないという本能的な警戒心に目覚めたわけです。七年も戦場生活をしてくると、自ら生命を絶つ、という卑弱な行為はできない、といって生きられもしないとすると、たぶん自分が壊れるのではないかと思ったのです。そうして、もしこのとき自身をこわさずにおく方法があるとすれば、それはなにかと考えたとき、ともかく危険地帯への前進をやめて、後退してくるほかはない、ということでした。では、後退とはなにかというと、眼を別な方向へ転じることであり、それが散文――の世界へ足を踏み込むことであったわけです」

ご本人の注釈より

さいごは「のぼってくる」のだ。

そこに、ちいさなちいさな光がみえた。

「竹の歌」

竹があると
山はやさしくなる
竹が
あまえるので

竹があると
山は時々笑う
竹が
くすぐるので

竹の媚態は
涼しい
触れると
溶けてしまいそうだから

帰りがけに
竹だけはおじぎする
夏でも鴬の鳴く
奥多摩の渓流のほとりで

いちにち 竹をみて
鴬を聴いて
それだけで帰ってくることもある
空の魚籠びくはその日の潺湲せんかんを仕舞って

竹をみていると
ひとはやさしくなる
いちばん身近なひとのなかへ
溶けてしまいたくなる

のびあがり くぐまりして
竹はいつみても体操している
この世はすべて
音楽に満ちているのだろう

  『定本・竹の思想』


夏前から、ある利用者さんのところに行くことになった。その方は近くのお寺の旦那さんのお墓まで歩いていくことを目標としていた。夏の間は気温が高く、外に出ると熱中症になってしまう危険性があるため、夏の間は室内のトレーニングを続けて、気温が涼しくなったら外を歩いてみようという計画を彼女と立てていたのだ。先日、ちょうど程よい涼しい日が訪れたので、待ちに待った外での歩行練習を実行した。



その時に、竹林があった。


竹は高く、太く、そびえていた。

緑が目にやさしく、葉が風に揺れていた。

そして足元には赤い彼岸花がたくさん咲いていて


横には稲が刈り取られたあとの緑の田んぼが一面に広がっていた。



この詩のような

竹になりたい。

竹はやさしくそこにいてくれる。

私なんかでは、一生辿りつかないかもしれない。


そして、私にとっての竹も見つけたい。


心の片隅に思い描いていたいなと思う。


のびやかな竹の姿を。


いつまでも。







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