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いい子でなくとも

私はわりとおそらく「いい子」の部類に育ったのだと思う。

母親にも言われたこともあるし、学校の先生にも友達にも

「いい子」や
「真面目」と
言われることが多かった。

学級委員とかもやったりした。

大人になっても
保育園の保護者会会長を
「ちゃんとやってくれそうだからくまさんに頼みたいんです」とか
PTAの活動などで
「くまさん真面目」とか言われたりもした。

学生の頃に委員をやっていた私は、それがアイデンティティの一つのように...少しばかり自慢げな気持ちもあったのだと思う。

大人になってからは
役員は面倒くさいものだと知っているし
人当たりが良さそうで断らなさそうだから
どうせ頼んでいるんでしょ
というようなひねくれた私の心もあり

自慢げな気持ちなんかさらさらなく
その中で自分にできることを
ただコツコツと
そして私なりの楽しみも持ちながら
やってみただけだった。


本を読むのを続けている。

きちんと意識して
読み始めたのは20代半ばから。
この仕事を始めてから
私は仕事の内容や
自分の人生に迷うことが多く
その答えを探すかのように
息も絶え絶えに読んで

すばらしいことばに出会うたびに

やっと深呼吸できるような気持ちになった。

ふぅと私は長く息を吐く。

生かされているなと思った。

本を読むのは誰かに認めてもらいたいわけでもない。自慢するためでもない。そんなことは望んでおらず、私は生きるために必要なエネルギー補充として本を摂取しているのだと思っていた。

私は私の悩みを100%果汁ジュースの濃さで出せる人がいなかった。

私の悩みは非常に複雑で
おもしろみもなくて
白黒もつけられないし
単純明快さもなかった。

水戸黄門のようなスカッとさもなく
他者のアドバイスを受けて解決するような代物でもなかった。

私が本を読むのは私が生きるためでもあり

私のまわりの誰かを守りたいからだ。

本に書かれていることもやはり曖昧で複雑で

でも同じように悩んでいて

1人ではないなと思えた。


本を読んでいると
やはり「真面目だね」とか
「頭でっかちで」とか
「お利口さんですわね」とか

そのある種の真面目さが鼻につくというような空気も感じたこともある。実際言われたこともある。

理論武装して、まわりの人がバカに見えるでしょう、と。

私はそのようにしたくてそうしているつもりもなかった。まわりの人をバカにしているつもりもない。未熟なのは私であり、足りない知識があるからこそ、私は本を読んでいた。私はただ生きていくためにそうしていて、私のなかでは「当たり前」の日常でもあった。

ただ、そんな私の心の中の反論はおいておいて

今回そのことばをそのまま受け取ってみようと思った。

そこが私のよわさにつながると思ったから。


そこで出た現状での仮の結論の話をする。


先日の私の記事のあっちんさんから頂いたコメントを、自分なりに深く考えたいなと思っていた。

「人は何を言っているか?」
より
「誰が言っているか?」
によって耳の傾け方が違う

私のよわさの扉がパカっと開いた。

私はおそらく
私のことばだけでは
どこにも
なににも
届かないことを

私は今まで散々体験してきた。

それによって自分は苦しんできた。

「若いから」
「女だから」
「平社員だから」
「頭がよくないから」
「有名じゃないから」
「目立たないから」
「人気がないから」
「声が小さいから」
「かわいくないから」
「お金がないから」

理由はわからない。
理由があるのかもわからない。

けれども、他の人と同じことを言っていても相手に全然届かないことに、すごく悔しさを感じていた。なんで私が言ったら信じてもらえないんだろうと...自分の伝え方について悩んだ20代。

30代になって私は主任になった。
役職がつくことで前より意見が伝わるようになった。

それはそれで私は腹立たしかった。なんだ、結局立場じゃないか。じゃあもっとえらかったら理不尽なこと言われてもそれに従うのか、この人たちは。

私はそんなことしたくないのだ。
立場や性別で聞く聞かないはなるべくしたくないし、態度も変えたくない。

プライベートでは、人として好きか嫌いかで聞く聞かないを判断したいと個人的には思っていた。まあ、これは関係ない話なのだけれども。世の中はそうでもない人たちもいたのだ。

そして、引き続き、私は私なりにどのように相手に物事を伝えるのか悩んだ。

そのための
耳を傾ける理由が
仮に「私」の話の内容だけではないとしたならば
私ではなく
研究している人や
その筋の専門家が
言っていることや
書いてあることで
私の意見の裏付けをしてくれるものを
探してあわせて伝えてみようと思った。

医療は根拠が大事である。
変な情報ではなく
その人のためになるような情報を
なるべく伝えなければならない。

だから、本を読む。

そして信頼してもらえるように

私はやさしさを身に纏って

フィジカルにも訴えかけて

その人のニーズをなるべく満たして

相手を侵襲しないように

「いい子」を続けているのかもしれない。


とここまでが仮の結論。


さ、
ここから話を少しずらす。

最果タヒさんという作家さんがいる。

私はエモい作家さんが好きだ。

タヒさんはエモエモ度はかなり高めじゃないかなぁと個人的に思っている。

そんなタヒさんの文章を一部載せてみる。

 正しいことを言えば味方をしてくれる人がいました。わかってくれる人がいました。私も、相手を攻撃することに躊躇がきっとなくなっていました。私は正しくて相手が間違っている、と思うことが、私に自信を与えました。言葉で殴りかかる自信を与えました。そうして私は、感情の代わりに正しさをぶつけていました。鬱憤を晴らすため、だったと思います。正しさを探して頭を働かせば、自分の怒りが感情的なものではなく、理にかなったものなのだと錯覚もした、それを指摘することは自分の責任だと思っていた。けれど、心地よかったのは事実だし、私はなにより、正しい人などなりたくなかった。憧れてなどいなかった。私はただ、「幼稚」と思われるのが怖かっただけだ。

「コンプレックス・プリズム」より

あのころ正論のふりをしてまで、怒りを他人にぶつけているとき、私はこんなにもみっともない自分はいない、と思っていた。そういう自分がコンプレックスで、自分の感情を振り切ってでも「本物の正しい人」になるしかないと思いつめた。生のまま吐き出すこともしないで怒りを捨て去り、頭で考えて考えて、自分の傷口を放置する。鬱憤を晴らして気づいていなかった。正論を言うことに心地よさを感じても、その心地よさは痛みをごまかすだけ。それでも、痛みが続くのは正しさが足りないせいだと信じて、もっと感情を捨てなくてはと思い込んだ。叫ぶこと、泣くことから、私は遠のいていった。これは、自分なりに誠実であろうとした結果だ、と思う、思うけど、もしかしたらあのころ、私もどこかで、感情を爆発させたりぶつけたりすることが「バカだ」って思っていたのかもしれないなとも思う。そういう人を見て「あーあ」って思っちゃうことがあったのかもしれない。そういう冷たさには、私、気づいていなかった。自分がみっともないとは思っても、そこまで残酷だとは気づいていなかった。いや、気づきたくなかったからこそ、私は「正しさ」ばかり追いかけていたのかもしれない。

同著より

読んでみて、全部が全部共感するものでない。

根拠も何もあったもんじゃない。

完全に1人の人間の叫びのようなものである。

しかし、読んでいて耳が痛いなと思うところもある。

私のよわさ。

世の中の「正しい」を否定したくて
でも私がその「正しい」を結局追い求めていた。

そして結果を出さなければと
人をコントロールしようとしている部分。
見返りをもとめている部分があるのだろうなと思った。


感情を取り戻したい。

そんなことを思った時に


私はフラットにそのままで付き合える人がいたことを思い出した。


おだんごさんが私のことを記事に書いてくださった。

おだんごさんの記事より

私のスタンスにこそ
丸ごとどうぞ、ご自由に
くまさんはそうなのねー
なるほど
と受け止めてくれるのがおだんごさんだ。

たぶん私以上の大きさで
大きなどんぶりで
受け止めてくれているのだろうなと思っている。
(お相撲さんの優勝の盃くらいのイメージ)

そして、彼女が眩しいのは私も同じなのだ。

おだんごさんは
ありのままの感情を
隠さずに
表現してくれる。

人の喜びは自分のことのように喜び
悲しみにはすぐかけつけて
自分の作品を見て欲しい時
賞を取った時は
「見て!すごいいい感じなのよ」
と自らの作品に祝福を授けている。
しなやかで強いのだ。

そして家族やまわりに対しても

私はここまでよーと誠実に誠実に

距離を測って生きている。

おだんごさんのこうなのよーや

紡ぎ出す作品は

私には眩しい。

そして私にはとてもじゃないけど書けないものである。

そして、ささやかに聞こえてくる声が時々ある。

「くまさん、いい子じゃなくていいんだよ」

って。


私がいい子でなくても
役職がなくても
女でも
やさしそうでなくても

そんなこと知ってるよって。

私のよわさも知ってるよって。

でもそんなくまさんの話、また聞かせてねって。


伝えようとしていたことが伝わっていたかなんて、今はどうでも良くなった。


こうやって聞きにくるよと言ってくれる人がいるだけで、私は自分のいい子像と向き合えるのかもしれない。

本はこの先も読むと思うし

やはり世の中に対してできることは

精一杯やっていきたいと、思う。

そして、こんな
独り言をずっと読んでくれているあなたに


私は感謝を伝えて


今日のお話はおしまい!


サポートは読んでくれただけで充分です。あなたの資源はぜひ他のことにお使い下さい。それでもいただけるのであれば、私も他の方に渡していきたいです。