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たぶん、駄文

「その言い方はよくないよ」

と言われ、私は少しうろたえた。

母親はこちらをじっと見ている。横にいる娘は黙って私たちの様子を見ている。

私たちは3人で会話をしていた。お正月で私たち家族は実家にお邪魔していた。息子のことについて私が話している時に私は「あの人はそういう人だから」と表現したことについて、彼女は言及しているのだ。

「あの人ってなんか冷たい」
「あの人という言い方はすごく他人みたいな感じがする」
「お母さんはそういう言い方はしないし、嫌いだなと思う」
「やめた方がいいと思う」

私の母親は、時々私のことや私の性格や言動について、このように指摘をすることがある。

私は言われたあと、一瞬考え込んだ。
考え込んだといっても、ほんの一瞬だ。

そして

「確かに私は人に対して冷たいのかもしれない」

と、ひとこと返した。

そしてそのあと「ごめん」と謝罪をした。

自分を知ることが大事だと耳にタコができるくらい世間では言われている。
己をどのようにまなざすか。

前回の記事にも書いたが、私の場合は他者という存在がないと、自分のことがよくわからなかったりする。

それは習慣において価値観においても全てにおいて、人と自分を相対的に見ることで、あらためて自己の振り返りが可能になるのだと思う。

相手を観察することや他者との対話はもちろんその手立てとなる。それ以外にも、他者が自分をどのように思っているのか、どのような人間なのかという直接的な意見をもらえることは、ある程度は参考にはなるのだと思っている。

ある程度は、だ。

全てがそうであるとは限らない。

この人は「私からこういう印象を持った」「こういう人だと思っている」という情報の範囲内に、意識的に留めている。

それを聞いて「そういう一面もあるかもしれないな」
「いやそんなことはないだろう」
という
なんともふわふわそわそわしたものが出来上がる。

そうかもしれないし
そうじゃないかもしれない

手のひらでころがすサイコロのように
それは1になったり
急に6になったりする。

メタメタである。

メタメタは造語である。

メタ認知の自分はメタメタな感じになっている。

メタメタ……メタモンっていたな。

あれはポケモンだったかな。

ドラクエでいうマネマネのポジションでもあり

ファイナルファンタジーのものまね士のようでもある。

FF6でいうところのゴゴのような…


私の頭はすぐ脱線する。
まじめそうな顔をしている時ほど何も考えていない。
正確には色々ふわふわ考えていてまとまりがない。

色々考える。
心の端っこにとりあえず置いておいて例の事象を眺めてみる。

母親はもしかして、私にそんな返事をもらいたかったのではないのかもしれない、とふと思い返す。
「本当だ!まさにそうだね。全然気が付かなかったけども、そのとおりだと思うから明日から改善しまくらちよこ!!」
とでも言っておけばよかったか…。どう考えてもそれは違うと思う。しまくらちよこはたぶんない。
それとも私なりの反論めいたものを聞きたかったのか……。でも私はそこに対して、彼女が納得するような答えも持ち合わせていない。伝えようとしてもうまく伝える自信がない。というか自分にとっては「普通」に出てきたことばであるからして、何がそんなに冷たいのかは、正直今だってあまりピンときていない。それを説明するのは今は難しいのだ。
自分と相手との違いと、たった今でくわして「こんにちは」したばかりなのだから。

母親から昔聞いた話によると、私は「人に譲ってしまう子」だったらしい。例えば運動会の障害物競走などで、自分が一位になりそうな場面でも、後から来た子を優先的に通らしてあげるような子だったとのこと。ほんまかいな。

人が泣いていると自分も泣いてしまうというような奇怪な行動もしていた。若かりし頃は、仲のよい人に感情移入しすぎて、ずいぶんと間違ったアプローチをして、私は痛手を負っている。

痛手はあまり負いたくない。
傷も若い時ほど回復力が早くない。

私は「人は人」ということを、今までの経験から学んだ。
この人の気持ちはこの人の気持ちであって、私の気持ちではない。
そしてその人が発していることばほど信用ならないものはない。

だって人間はうそつきで、自分の気持ちなんて自分でもよくわからなくて、ことばで言っている事が全てではない。誰しもがことばやきもちを器用に扱えるわけでもない。

それでもわたしはことばを紡ぐ。
頭の中で駄文を生み出す。
それは人から見ても理解不能な何かの塊にすぎない。

 人を頼めば身他の有なり。人をはぐくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし。したがはねば狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、いばしもこの身を宿し、たまゆらも心を休むべき。

方丈記

「人を頼りにすれば、自由を失ってこの身は他人に所有されたも同然になる。人を慈しんで世話すれば、心は恩愛の妄執にとらわれる」と鴨長明は言っているらしい。
思わず気持ちがわーとなる。
人と付き合うことのつらさは昔から変わらない。どうしたらこの身をこの心を安らかにできるかを私も考えたい。そして私が人に危害を加えないようにできる限りの注意を払いたい。この災害が多い世の中だからこそ方丈記を読むべきだと、なんとなく私の頭の中のクマ吉が騒いでいる。(クマ吉は頭の中に飼っているくまの一匹である)

心の端っこに置いてある事象から、私は随分と離れたところへやってきた。

数日後

娘がぽつりと話した。

「おかあさん、いいんじゃない」

「おかあさんはそういう意図をもって言っていないのだろうし」

「私はあまり聞いていて気にはならない」

「でも、気にする人もいるのだなというところで」

「それをふまえて発言するなら」

「それはそれでいいんじゃないの」


メタモンもマネマネもものまね士も

はっと私を振り返った。


クマ吉がどこか遠くで

カーンと

木を切り倒す音が聞こえた。



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