どこまでも潜れる人たち。およびその手段。
(写真は常に関係ないです)
村上春樹、吉本ばななというビッグネームの
どこまでもどこまでも「潜って」物語をそこから掬い上げてくる、という表現
と
仏教特に禅者の求める「悟り」はかなり共通点があるような気がしました
つまり前者は、後者が到達しえないところに軽々とタッチできるということで
日常を極めれば在家で仏教でいう悟りの境地に達することができるということの証左である
ただし、この境地にタッチしてくることはかなりの精神的危機を伴います。
ビッグネームの作家は何度も(意識下の)修羅場を潜り抜けているからこそ、プロフェッショナルだからこそできるわけで
出家している禅者は、どうあがいてもここまで達することはできない(天才はのぞく)
そもそも自らを精神的危機にまで追い詰めることのできる禅者がどれぐらいいるのだろうか?
逆に、しっかりと日常を生き、ビジネス・シーンにおいて激烈な競争をしている人間のほうがその境地に到達することはたやすいはず。
彼ら(村上、吉本)は、どこまでも潜って、物語をすくいあげてきて、それを我々にシェアしてくれます。
そういう意味では、独りよがりで修行を続ける禅僧などと比べたらよほど徳は高いのではないかと思いますね。
ここまで書いて思い出しましたが河合隼雄先生は、カウンセリングにくる患者(先生のところにくるぐらいなので、精神的に超重度な問題を抱えている)と
どこまでもどこまでも潜る、もうダメだというところまで潜る
という表現をされていました。
患者に試されることの恐ろしさ。。。
アナタは私と一緒にどこまでも潜っていけるんですか?という挑戦状のようなもの。
そういえばカムパネルラ(銀河鉄道の夜)を思い出しますね(思い出すとともに、軽く涙が。。。)
僕たちどこまでもどこまでも一緒に行こうねえ、と約束している時点でカムパネルラはもう死んでいたのです。
ジョバンニは結局、目を覚ますのです。目を覚ましたとき、確か、頬に涙が伝わっていました(たぶん)
。。で、河合隼雄先生は、彼特有の表現ですが、「申し訳ないけど、自分の命のほうが大事だから」というわけです。
そう言えるところが実はすごいんですけどね。
患者と(ほぼ)極限まで寄り添い、どこまでもどこまでも潜っていくものの、どこかで浮き上がらなければならないタイミングはある(患者が、重度であればあるほど)
患者は、寄り添ってくれていた人間が途中で浮き上がっていったとしてもその瞬間絶望するわけではない(たまに絶望するヒトもいるのかもしれませんが)
寄り添ってくれたという事実は残る。その事実の積み重ねにより、雪解けの時期に雪が少しずつ少しずつ溶解していくように、患者の症状は少しずつ治っていく(ことが多いのでしょう)。
臨床心理学者はビッグネームの作家と通底するプロフェッショナルですから、とにかく我々素人は重度の精神疾患を持つ患者に寄り添わないほうがいいのです。
残念ながら、なのかどうかはわかりませんがプロに任せたほうがよい。プロに任せるしかない。
ただし。
ビッグネームの作家ならできるかもしれない。実際村上春樹さんは「アンダーワールド」で「あの」事件の被害者、犠牲者の関係者に寄り添って記録するという離れ業をやってのけています。
そのレベルには達していなくとも人生において「激烈な」経験をしてきた人間ならば、精神疾患を持つ患者にある程度寄り添えるのかもしれません。
でも、漆黒の闇を持つ相手に対しては、ある程度距離をおいたほうがよいのでしょうね。
で禅者に話を戻すと、ハンパな僧では重度の精神疾患患者にはまったく太刀打ちできないと思います。
かなり危険なところまで行ってしまい自分のアイデンティティまでも崩壊させてしまう危険性はある。
ただ、本当に(一般的表現で)悟りを開いた人間であれば、寄り添えるに違いないと思う。
なぜなら、悟りを開いた人間は、重度の精神疾患患者とはまったく違うアプローチで地獄をみてきているに違いないから。
言い方を変えればビッグネームの作家と同じように底のほうまで潜って「何か」を拾い上げてきた経験があるから。
そして、ビッグネームの作家の渾身の作に対して、重度の精神疾患患者がシンクロしてしまうことが多いというのは、わかりますね。
というか、当然なのです。患者が深く深く潜って奈落の底で見てきたものを、その作品の中で感じることができるのだから。
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