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感情や直感的なものも含めて言葉で表現する

指導者の伝え方 教え方の表現には個性がでます。理論的・実践的であったり 抽象的・具体的であったり 主観的・客観的であったりします。それらをうまく使って表現する方もいれば 一本調子の方もいます。受ける側にしても理論的なほうが良かったり 難しいことは省いて実践的なほうが良いという場合もあります。

スポーツの指導者にみられる威圧的指導 暴力的指導のニュースを聞いて残念に思うことは 伝統校や世界選手権・五輪の経験者やメダリストが 指導者になり そうした行為をしていることです。目標の達成のために禁欲的・求道的に競技に取り組み努力を積み重ねて結果を残した・残せた人達です。その過程でたくさんの哲学や知恵を授かったはずです。限られた人達にだけ与えられた経験を育成に生かすために指導者になったはずです。なぜ自身が過去に経験したひとつひとつを言語化することをしてこなかったのでしょう?私にはそう感じます。指導する中で その方法をその都度選択し伝達していく。言語をもって意思や感情を伝達しあう。きちんとできていれば威圧的・暴力的行為は無縁です。自分自身の表現力の拙さを棚に上げて理解されないことの苛立ちを暴発させている以外にありません。幼児が積み木遊びをしていて上手くできないことを表現できなくて突然積み木を崩してしまう。私はそっくりな行為だと思っています。幼児が積み木を崩すかのように指導者は叩く・殴る・蹴る行為をしているのではないか。暴力的指導をしている指導者の実績は指導者の能力ではなく スカウト(スポーツ推薦)による戦力の結集によるもので そこには選手の忍耐力が犠牲にになっているのでしょう。

言語化の努力は「職人」と言われる世界にも必要だと思っています。「技術は見て盗むもの」 一定の試用期間中に特に言われている気がします。しかし それもそれまでの経験を言語化してこなかった名残り・さぼりなのではないかと思っています。確かに見ることはよき学習・教育だと思います。全ての知識・技術を教授されたからといってやすやすと師を超えることなどできません。すべての知識や技術を教授してみると案外と薄っぺらいものだからなのでしょうか。そんなことはないはずです。教えすぎるということではないですが見て盗むやり方よりも ある一定レベルまで知識・技術を身につけさせてスタートラインに立たせるほうが得るものは双方にとって高いと思っています。基本を身につけ思慮しながら前に進み今の時点の自分の型を見つけていく。いつか師の志 血筋を受け継ぎ型を形に変えていく。思い起こせば若いときにこんな修業があったなと笑い話になる(なれば良いですが)なんて必要ないかな。どちらにしても理不尽はよくありません。経験を言語化できなければ知識にも知恵にもなりません。

日本ではコーチングやティーチングが学問として遅れていることも要因なのでしょう。

「ちょっとやってみようかな、マネしてみようかな」というところからカラダの使い方に興味をもってもらえれば嬉しいです。