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透析話

 どういう話の流れからか、「透析を導入すると捨て鉢になる人が多い」と看護師さんが言う。「それにしてはそんなことがなくてすごいわね」と言われたのだけど、そんなことはない。

 透析導入前後、体力がガタ落ちし、ちょっと街に出ただけで吐き気をもよおし、その辺で倒れてしまうことがあって、それからどうしても出なくてはいけないのでなければ引きこもるようになった。いまでも、出先で不測の事態が生じた場合、どうなることか――唐突だが、ちょっと思い出したのは、むかーし、パソコン通信を取り上げたドラマで透析をしている子どもが誘拐されて明日までに透析が出来ないと死んでしまうと互いに顔も知らないパソ通の同志が協力するという番組があったけど、そんな感じ。まあ、実際は1日くらい予定通り透析ができなくても死ぬことはまずないけどね。自分でできるのは食事と水分管理くらいだな。

 とりあえず、食って出して眠れさえすればいいというのではないので、近所ならともかく、別の土地に行くときは、けっこう覚悟がいる。病気のことでいっぱいいっぱいで、覚悟を決めるだけのエネルギーが湧いてこず、どうせ何もできやしないと諦めたような生き方になったりする。駄目な奴だと言うことは自分がいちばん分かっているが、どうすることもできない。そういう気持ちはよく分かる。分かるが、埋没してはいない。

 なんというか、例えば怪力無双な人に手首を力一杯握られたとする。難病の例えだが、たいていの人が、そのつかまれた手首をはずそうと格闘する。が、やっぱり外れない。あるいは最初から断念してしまう。そりゃ捨て鉢にもなるわさ。
 つかまれた手首は外れないかもしれないが、他のところは動きますよね。動かないところを動かそうと力むのではなく、動くところを使っていけばいいのだ。そこを切りかえられるかどうかは重要なポイントだと思う。これから自分は病気というものと一緒に生きていくのだと受け入れることだと言い換えてもいい。それができないと、ずっとつかまれた手首にとらわれてまったく身動きがとれない。ちなみに対抗すると力の強い者が勝つが、力は衰えていくものだから、いまは勝てても必ず負けるときが来る。そうではないやり方もある。ゆっくり変わっていけばいい。

 病気の有無に関係なく、不自由な概念の中で苦しむ人はたくさんいる。まず自分がどのような概念の中に住んでいるのかに気付くのが難しい。気付いても、その概念に愛着を持ってしまい捨てられない人もいる。不自由だと分かっていても、それまでのやり方の方が安心だからだ。しかし、せっかく病気をしたのだからその原因を突き詰めるべきと思う。よく言われる生活態度や習慣、ストレスは副次的なものであり、その土台となるものに目を向ける必要がある。己の想念を省察すべきということだ。

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