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蛇足 『新訳 茶の本』

『天神山』という上方落語がある。

###以下『天神山』より###
高津の長屋に住むヘンツキの源助は、世間が花見に浮かれる頃、一心寺に墓見はかみに出かける。「ヘンツキ」と呼ばれるくらいなので、世間と同じことはしたくないのだ。女性と思しき戒名のある適当な墓を前にして、持参した酒を飲み、墓にも手向け、墓に向かってあれこれ話しながら、肴を食す。帰りがけに足元の土が盛り上がっているのに気がついて、掘り返してみると髑髏しゃれこうべが出てきた。傷のない綺麗な骨だったので、それを懐に入れて持ち帰り、部屋の置き物にした。するとその晩、源助のもとに若く美しい女性の幽霊が現れる。その髑髏の主だというその幽霊は、源助に昼間の手向の礼にやって来たという。源助がやもめであることを知った幽霊は女房になりたいと言い出した。源助もその気になり、二人(?)で祝言の真似事をして、その晩は楽しく過ごした。

長屋の壁は薄い。隣に住む寡の安兵衛にはその一部始終の大凡が聞こえてくる。翌朝、安兵衛は源助を訪ねて詳しい話を聞き、自分も、というわけで一心寺に向かう。しかし、そんな都合の良い髑髏がそうそう転がっているはずもない。一心寺の向かいにある安居の天神様にも嫁を世話してくれと願掛けに行く。その境内の森で狐を捕まえようとしている男に出会う。

男は安兵衛の目の前で雌の狐を捕まえた。男はその狐を黒焼き屋へ持って行って売るのだという。安兵衛は狐を買い取って逃してやる。するとその晩、安兵衛のもとに若く美しい女性が訪ねてきて押し掛け女房になる。昼間の狐が化けて礼にやって来たのである。二人(?)は仲睦まじく暮らし、子供も生まれる。しかし、やがて狐であることがバレて安居の森へ帰っていく。その時に、部屋の障子に歌を一首書き残す。
 恋しくば尋ね来てみよ南なる
 天神山の森の中まで
###以上『天神山』より###

岡倉天心が遺した詩劇『白狐』も狐と人間との婚姻譚である。本書からその内容のあらましを引用する。

いわゆる葛の葉伝説—和泉国信太の森の白狐が人間の女に姿を変えて安倍保名の妻になりすまし一子(後の陰陽道の名人安倍晴明)をもうけるが、やがて正体が知れて、愛児に
「恋しくば尋ね来てみよ和泉なる
 信太の森のうらみの葛の葉」
の歌を残して元の森に帰ったという話で、浄瑠璃や歌舞伎などにとりあげられ、親しまれている—を素材とした恋物語で、……

252頁

日本の民話には動物と人間が関わり合いを持つ話が少なくないが、それは日本が温帯域、プレートの境界域、大陸と連結断裂を繰り返した地殻変動域に位置し、四季に恵まれ、多様な生物生息領域であったことと無縁ではあるまい。狐は人間と対する自然の象徴であり、時に友好的であり、時に敵対的な存在だ。しかし、殆どの場合、その関係性は悲劇的な終焉を迎える。つまり、それは人間が己を自然に対して相対化して認識しているということでもあり、互いが相容れない存在であるとの認識をも示している。

環境は時々刻々変化する。その環境下に生きる者の関係性も環境の変化に応じて変化する。当然のことだ。いついかなるときも互いに愛し合うなんてことは土台無理なのである。また同時に、いついかなるときも互いに憎悪に燃えるなんてことも続けられるものではない。握手しながら空いた手で殴り合うなんてことも、よくあることだ。時間を止めることができないのと同じように自他の関係性の変化を止めることもできない。今がどれほど友好的であっても、幾許かの緊張はあるものだし、どれほど憎むべき相手であっても妥協の余地を残しておかないことには、自己の存在が危ういことになる。何がどう転ぶかわからないからこそ、臨機応変の姿勢や精神が必要なはずだ。現実はどうだろうか。

岡倉は『白狐』で、人が異類を絶対的に自分の下に見る傲りを嘆いているのだという。『白狐』は本書の中で大久保喬樹が書いている『エピソードと証言でたどる天心の生涯』の中で紹介されている話である。岡倉は『茶の本』の第六章「花」でこう書いている。

悲しいかな、私たちは、こんなにも花を友としながら、その実、獣であることから抜け出せていないということも隠せない事実だ。かぶっている羊の皮を剥いでみれば、たちまち、その下に隠れていた狼が牙をむくだろう。人は十歳で獣、二十歳で狂人、三十歳で落伍者、四十歳で詐欺師、五十歳で犯罪者といわれてきたが、それは、獣でありつづけたということだろう。私たちにとっては、飢えほど切実なものはなく、欲望ほど尊いものはないのである。さまざまな神に捧げられた神殿は次々に崩れ果てていったが、唯一、私たちが香を焚き、至高の偶像に崇拝を捧げつづけている祭壇がある。私たち自身だ。我らの神は偉大なり!そして、この神の予言者をつとめるのは金なのだ!私たちはこの神に捧げるいけにえとして自然を荒らしまわる。私たちは物質を征服したと鼻高々だが、実は、私たちの方こそ物質の奴隷になりさがってしまっていることを忘れているのだ。私たちは、文化と洗練という名目でどんなにひどいことをしていることか!

119-120頁

結局、「私」とか「自己」とか「自我」とか「自意識」とか、そういうものが「私」とか「自己」とか「自我」とか「自意識」とか、そういうものを滅ぼすようにできているのだろう。人の「原罪」とはそういうことのような気がする。哀しい生き物だ。

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