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「旨い」ということ。

母と二人暮らしをしている。

年々からだが動かなくなり、いまは外出もままならない88歳の老人にとって、食事だけが唯一の楽しみだ。

食事は「楽しみ」だけではもちろんない。

高齢者は食事を取らないと、てきめんに体が弱る。とにかく「ちゃんと食べさせること」。それが健康管理の肝だ。

ちゃんと食べさせるためには、「味」が重要になる。

料理上手だった母は舌が肥えている。忙しくてテキトーに作った料理や、買ってきたお惣菜は、食べない。

食べても飲み込まずに口の中に入れっぱなしだったり、そもそも口を開かなかったり。

「せっかく作ってくれたのだからイマイチでも我慢して食べる」などという気遣いは一切ないし、「食欲ないけど体のために食べておこう」という健康管理の感覚も、とっくのとうにない。

一方で、美味しくできた料理、手のかけた料理は「旨い!」と言ってたくさん食べる。新鮮なおひたし、ていねいに出汁をとった煮物、ふんわりしたオムレツ、質のいい牛肉のすき焼き。そんなものだと私以上に食べたりする。

実にわかりやすい。

だから、母に1日でも長生きしてもらうには、毎日「旨い!」と言ってもらうこと。そのつもりで食事を用意している。

私「旨い?」
母「旨い!」
私「よかったね〜」

この会話を毎日続けることだ。


母はかつて完璧な専業主婦だった。

食にうるさい父が満足する食事を朝昼晩、40年間作り続け、自分の食事は二の次三の次。来客の時には台所で立って食べていたこともあった。

父が亡くなり一人暮らしの時代になると、今度は「一人だから食事はなんでもいい」が口癖になった。たまに実家に帰ると本当にろくなものを食べていなかった。

そんな母が人生も終盤にきて、ある意味本能むき出しになったときの最大の楽しみは、やはり「食」というのは意味深い。

そして食事に求めるのは、栄養価でも、ヘルシーさでも、高価さでもなく、ただひとつ、

「旨いかどうか」。

個人差があるかもしれないが、母を見る限り、目や耳や足は衰えても「味覚」は最後まで残る。

だから、年を取れば取るほど、行動が狭くなればなるほど、人は「旨いもの」が必要だ。リッチなものという意味ではなく、味つけのいいもの。いい食材。

そういう意味で、栄養だけのまずい病院食は罪作りだと思う。

「旨い」は人を笑顔にし、寿命を伸ばす。

いっぽうで「まずい」は人をがっかりさせ、体を弱らせる。

つまり「旨い、まずい」は美食家の自己満足の話ではなく、贅沢の話でもなく、「人の寿命」「人生の質」に直接関わってくる話なのだ。

そのことを母は今、身をもって私に教えてくれている。

「旨い」を過小評価してはいけない。

もっと「旨い」を大切にしよう。

もっと「旨い」を追い求めてみよう。

強くそう思うようになった。

そして、

いっそそれを仕事にしてしまおう。

そう決めた。

私にとって大きな挑戦だけど、迷いはない。

折しも年号が変わる、春。

古い時代に区切りをつけ、新しい時代の始まりに向けて、

いま忙しく準備をしている。

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