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話がかみ合わないときに考えること

最近、周囲の人間に「意見を整理するのが上手い」とか「論点がずれてることによく気づく」とのお褒めの言葉をもらうことが多かったので自分なりに考えてることを整理してみた。

「同じテーマについて話してるはずのに、どうも話がかみ合わない」という場面に遭遇したとき、どんなことが起きてるのだろうか考えてみる。

A「駅前に新しくできた定食屋のハンバーグ微妙だった」
B「えー!おいしかったよ!」
A「そうかなー肉を食べた!って感じがしないかったわ」
B「えーじゃあどこの店なら満足できた?」
A「スタバの向かいにあるあそこのお店!」
B「えーそれはないよ…」

この「話がかみ合わない」という現象は、個人的には「目の前の人間と自分を同一視してしまう」ということに尽きると思う。

人間の行動の分解

乱暴に言ってしまうと人間の行動は入力処理出力という三段階に分解できると思っていて

入力
外界からの刺激を脳まで届ける。
眼で見る、耳で聞く、舌で味わう、肌で感じる

処理
入力された情報を取捨選択したり、解釈したりする。
過去の経験と比較したり、興味のない情報をそぎ落としたり、学んだ知識にあてはめたりする。

出力
処理の結果を外部に吐き出す。
口による音声出力、体全体による動作出力

これら3ステップのうち、他人の入力出力は確認できるけど、他人の処理は確認することができない。

何が見えて、何が見えない?

ハンバーグを食べるという入力、「おいしい」と発言する出力は外部から見えるけどその間の処理に関しては外部から確認ができない。
「焼き加減はレアが好きなんだよ」と考えているのか、「肉汁がジューシーで最高」と考えているのか「ソースはおいしいしたっぷりかかってるな」と考えてるのか、それを知る手立ては私たちにはない。

なので、勝手に想像するのだ。
どうやって想像するかというと、無意識に「他人の処理」と「自分の処理」を同一視してると考えるの自然だと思う。つまり「目の前の人間は自分と同じ経験をしてきて、同じ嗜好、同じ価値観、同じ優先順位を持っている」と無意識に仮定してしまう。つまり「私はレアなハンバーグが好きだから、あの人も好きだろう」というようなことを無意識にしてしまう。
この仮定が「入力したもの、処理が同じなのになぜ出力が違う?」という状況を引き起こし、話がかみ合わないという事象を作る原因である。

A「駅前に新しくできた定食屋のハンバーグ微妙だった(量が少ない)」
B「えー!おいしかったよ!(肉汁がジューシー)」
A「そうかなー肉を食べた!って感じがしないかったわ」
B「えーじゃあどこの店なら満足できた?」
A「スタバの向かいにあるあそこのお店!(なにせ量が多い!)」
B「えーそれはないよ…(肉パサパサじゃん)」

Aは量を重視にしてるのに、Bは肉汁のジューシーさを重視している。でもそれが入力と出力からだけでは判断できない。同じハンバーグを食べ、ハンバーグの肉感について議論しているはずなのにだ。かくして「話がかみ合わない」状況が出来上がる。

結論

話がかみ合わないときに考えることは「相手と自分で何か処理が違うんじゃないか」ということ。自分と相手の処理の違いを認識するためには、自分と相手が異なる人間であるということを強く意識する必要がある。つまり、相手と自分の相対化が必要なのだ。

自分の場合

相手の処理についていくつも仮定を立てながら話を続けると、相手の処理の内容がおぼろげながら見えてくることがある。「相手の処理を仮定しながら対話ができること」「対話の中で見えてきた相手の処理内容を言語化できること」が自分の強みなんじゃないかと最近考えている。

最後に好きな哲学者、中島義道の言葉で本投稿を締める。

「あなたの言いたいのはこういうことですね」と、すべてを相手の枠組みや価値観、諸前提や推論式に従って正確に再現して見せるのだ。これは、強者のみがなしうるカッコいい態度である。
「人生に生きる価値はない」より引用

カッコいい男に僕もなりたい

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