自戒も込めた密かな決意表明

わたしの大好きな場所で起こった大きな出来事について語っています。
その内容について触れたくない方、見たくない方はこのまま引き返してください。
また個人的な意見と感想です。
もちろん賛否両論はあると思います。
他の意見があって当然です。
もしわたしの意見と合わない又はご気分を害されたとしても人それぞれいろんな意見があるなぁと流して頂けると幸いです。

そして以下に記したいのは今回の一連の出来事での報道、それに対するネットでのファンの在り方、そして自分自身の在り方などについてです。

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まず今回亡くなられた生徒さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。

まずこの投稿をしようと思ったきっかけは今回の某雑誌の記事とそれに対しての加熱した一部のファンの投稿でした。
雑誌の記事は読んでいません。
なぜなら公式が公表をしていない名前を勝手にあげ、さらには広告に写真を掲載していたと聞き読むに値しないものとわたしは判断したからです。
なのでその詳細についてあれこれと議論するつもりは毛頭ありません。
そして記事の内容の真偽や信憑性について語る必要性はないとも思っています。

公式が発表している事実はたった一つ。
1人の生徒さんが亡くなられたという事だけです。

記事の信憑性があろうがなかろうがわかっている事実はたったこれだけ。
それにも関わらずネット上には亡くなられた直後から特定の個人の名前や顔写真あげ誰かを特定できる形で実に攻撃的な発言が随所で見うけられました。
そして新しい記事が出れば今度はそれに載っている人物を顔写真付きで次々に叩いている。
憶測でしかないのによくもここまで酷い内容を発言できるものだなと嫌悪感を抱くほどでした。

それと同時にそれらの行動があまりにも軽はずみでとても恐ろしい事だと感じました。

SNSが身近になったいまどんな人でも簡単に自分の思いを全世界に向けて発信できます。
それは好むと好まざると誰の目にも触れてしまいます。
そして一度発信した言葉を取り消す事は2度とできません。
記事を削除してもその発言が完全にネットの世界から消える事はないのです。
だからこそ憶測で発信する事は恐ろしい。
仮に後から全く違った事実が出てきて、憶測の間違いに気づいて慌てて訂正したとしても後の祭りです。
人の記憶はより印象的なものを記憶しそれがその人の中での真実となります。
よほど熱心なファンでなければ後から出てきた事実を追うこともしないでしょう。
そうすると誤った内容で誹謗中傷した方の名誉が本当の意味で回復される事はもう2度とありません。
その方のこれからの人生に間違いなく大きく影響を及ぼしてしまう事になる。
でもきっと彼らはそこまで考えて発言をしていないでしょう。
閲覧数で小銭を稼いでいる人達はそもそも論外です。
そういう人達は初めから理解した上であえて書いています。
まさに某雑誌の記者達と同じです。
ここで問題なのはそれ以外のファンと称する人達の方です。
彼らはまるで友達と立ち話でもするかのような気軽さで、無責任な発言を全世界に向けて垂れ流している事に全く気づいていないのです。
それがSNSの怖いところだとわたしは思っています。
SNSが身近になったぶん、それを使うわたし達にはマナーやモラル、ネットリテラシーといったものがより強く求められています。
それは誰もがちゃんと向き合わないといけない義務でもあります。
言葉は使い方によっては暴力になります。
直接的な暴力よりタチが悪いのは自分のそれが誰かに対する暴力になっていると気づけない事です。


冒頭にもあげたようにわたしは今回の件に関してその詳細について語る気はありません。
具体的な否定も肯定も擁護もしません。
なぜならそれが出来るだけの事実をわたしは知らないからです。
何を語ったとしてもそれはただの憶測に過ぎない。
そんな不確かなもので件について語るのはセカンドレイプみたいなものです。
事実が今後明らかになれば書く事もあるかもしれません。
が、たぶんわたしは件についての詳細を議論するような事は書かないでしょう。
なぜなら事実が表に出てきたとしてもそれは氷山の一角、そしてわたしは当事者ではない。
実際に自分の目で見て聞いて感じたわけでもないものについて語る事はとても難しいからです。

また最近ではSNSのそこかしこで事実を全て公表するように求める声が非常に大きいと感じていますが、それについても批判的です。
なぜなら事実が公表されるべき相手はわたし達ファンではないと考えているからです。
事実を知る権利があるのはご遺族のみ。
そしてその事実を公表するしないはご遺族にのみ委ねられています。
例え公表しない事で隠蔽だと叩かれたとしてもそれがご遺族のご意向であれば劇団はその批判を甘んじて受け入れるのが正しい姿です。

わたし達ファンが透明化や正義を盾にその公表を要求していいものではありません。
わたし達に公表されるべきは再発防止の為に今後どのように問題に取り組んでいくか。
その対策や改善点を公表する事こそ劇団が社会的責任を果たす事だと思っています。

わたしが今回の事を書けば贔屓を擁護しているだけだと批判されるかもしれませんし、その気持ちは意図せずとも滲んでいるかもしれません。
でも決してそれが最大の理由ではないと断言しておきます。


わたしがこれを書いた理由、その最たるものは憶測でこれ以上傷つけられる人が出ないで欲しいという想いからです。
例えそれが自分の大切な誰かを守るためであっても他の誰かの大切な人を傷つけるような事はもう2度と起こってほしくないと強く願っているからです。

そしてもう一つ。

人は身近に起こった悲しい出来事に自分の1番納得のいく理由を付けたがります。
そうする事で自分の心を守りたいからです。
でもそれは決して正しい事ではない。
特に自死においてはいい意味でも悪い意味でもその理由を誰かが勝手に憶測で決めてはいけない。
そして自分の安心のために、又は自分が疑心暗鬼から抜け出す手段としてその理由を知ろうとしてはいけないし、ましてや人の死に憶測でストーリー性を持たせる事はあってはならないと考えています。

わたし達がするべきは、ただ亡くなられた方を悼み、その死の尊厳を守るために憶測を流布しない事、そして遺された方々の行く末をただ黙って見守り受け入れる事だけです。

そして、わたしはそうしていきたいと思っています。