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推しのソロ活動を通して振り返ってみた3年半前。


ドレスコードになりつつあったマスクが外せるようになって1カ月。
マスクを外していいタイミングで韓国に行っていたのと、
皮膚科のダウンタイムの影響で外すタイミングを完全に逃した。

この1ヶ月は推しがカムバ。
ソロ活動による供給の多さに毎日追うのが大変で、
仕事ももちろんこなしながら怒涛の供給のシャワーに溺れそうになりながらも、
"推しは推せるときに推せ"の言葉通り走り切った。
おかげでもちろん寝不足。

彼のアルバムの曲の中で伝えたかった感情やその時の想いを通して、
このマスクが取れるようになった
事実上の"コロナ禍の終焉"と共に整理してみようと久しぶりに文章を書いてみる。 

*コロナ禍を体験してそして今振り返って思うこと*


3年前パンデミックで生活は一変し、
緊急事態宣言と共に県境は国境になり、人と気軽に会えなくなった。

手探りで始めたオンラインクラス


あの時を思い出そうとしてみると靄がかかったようにくすんでその時の感情をうまく思い出せない。
あの時わたしはとにかく必死だった。
ヨガインストラクターといえば聞こえはいいが不安定な仕事、
そしてわたしは大阪でのレッスンを当時たくさん持っていたし越境できないことはほぼ職を失うことと同意だった。


それに加えてわたしはすごく怒っていた。
人間の不寛容性にとても腹が立っていた。
トイレットペーパーを買い漁り、世界では外国人嫌悪や差別がみられ、
マスクをするしないで正義と悪を決めるような行動、SNSでの発信。
このような諸悪の連鎖が人々の間に分断をもたらすことに怒っていた。

多様性時代と逆行するような人々の行動。
次第に顕になっていくその人の人となり。
緊急時にこそ人が見える。


そして「不要不急」という言葉によってふるいにかけられていく人間関係。

「友達」と「知り合い」の境界線はどこなのか。
これまでの人生で何度も自分自身に問いかけた問題をまた考えるきっかけをもらったし、
私たちにとって大切なことは何かを決めるのは、とても難しいということをコロナ禍は気づかせてくれた。

「不要不急なことをやめる」
というのは、何が不要不急かは、何が大切かという問いの裏返しだ。
政府も一般人も無邪気に不要不急という言葉を使い始めた。
その言葉にもまた苛立ちを覚えた。
それは
「今すぐに何が大切で何は大切でないかを決めろ」と突きつけられているように感じたからだ。

でも、わたしにはそれは簡単ではなかった。
多様な不要不急の解釈が出て、
世間の不要不急と全く足並みがそろえられない。
なぜなら何が大切かは人それぞれだから。

そしてそんなふうに人が多様なことを受容する社会を私たちは目指していたはずなのに、
その一方で人間の不寛容性が目につく。

人間の長所、
日本人の美徳譲り合い、助け合うという精神を失いかけている。
不都合が発生した時、外的要素を攻撃し内的要素を守ろうとするのは人間の性。
しかし、今こそ制限や制約を逆手に取り、できることを模索する時である。


わたしは、何が不要不急か、何が善悪か、ではなく、何が大切かでもめたいと思う。
そのためには不寛容性と向き合い、それを寛容していく必要がある。
分断を回避できるかが今、私たちにかかっていると思う。


マスクが外せるようになったこれからの社会は、
何かを悪にして、
『善』を作る構図から抜け出そう。
そうすれば世界に自分の幸せを委ねなくて済む。

狂わないために狂おうとするんだ

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