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妄想邪馬台国「出雲に神の国あり 6」

武烈天皇のことについて書く前に、眉輪王に暗殺されたと言われる安康天皇に関して追加する。

允恭天皇の太子・木梨軽皇子と穴穂皇子が互いに兵力を結集して対立。しかし、日頃から淫乱との風評があった木梨に味方する者は殆どなく、人心はことごとく穴穂皇子に集まった。木梨は群臣らの離反に動揺して宮中を出て物部大前宿禰の屋敷に身を隠した。それを聞きつけた穴穂は兵を集めて宿禰の屋敷を包囲した。宿禰は穴穂を迎い入れて、穴穂に「木梨軽皇子の処置は私に任せてください」と言った。穴穂は宿禰の願いを聞き入れた。結局、木梨は宿禰の屋敷で自刃して果てた。

穴穂が即位し安康天皇となる同じ頃に大泊瀬幼武尊(のちの雄略天皇)が、反正天皇の皇女たちを迎えようとしたが、その要求はことごとく拒絶された。大泊瀬は日頃から乱暴で、皇女たちは「機嫌が悪くなると朝に会した者も夕には殺され、夕に会った者も翌朝には殺されてしまう」と言い恐れたのだという。(以上、歴代天皇総覧 中公新書より)

古事記には、「木梨軽皇子が立太子していたが、妹の軽大娘皇女(あまりの美しさに衣通姫と呼ばれていた)と恋愛し、それが原因で允恭天皇の死後、伊予に流刑となるが、そのあとを追ってきた軽大娘皇女と一緒に心中した(衣通姫伝説)」とある。

日本書紀では「巻第13に衣通姫伝説についての記述がある。その中では允恭24年の夏6月、軽皇子と軽皇女の相姦が発覚し、皇太子を処刑することはできなかったので、軽皇女を伊予に追放したとある。さらに允恭42年春1月に天皇が崩御した後、同年冬10月に穴穂皇子と戦い、形勢不利と悟った大前小前宿禰が軽皇子の助命を穴穂皇子に嘆願するものの、軽皇子は自害した(Wikipedia衣通姫伝説より)」と書かれている。

「話をまとめると、安康天皇に木梨軽皇子がはめられたのよ。安康も雄略も悪い奴なのよぅ」と言ってから治子は僕をジロリと睨み「稗田君はどう思う?」と言うから「ひでぇ奴だな」と口を合わせた。

「でしょ?だよね」
「でもね、安康と雄略は“倭の五王”のうち、武(ぶ)と興(こう)らしいんだよ」異能が侮蔑の気持ちを抑えるように呟いた。それを聞いた治子は、又コタツを激しく叩いて、
「そうなのよ、武が雄略天皇で興が安康天皇だということが確実視されているんだよっ!」
「何だかイヤだね。こんな奴らが倭の五王のうちのふたりだなんてさ」僕も同調した。
「4世紀には倭国(日本といっても西の方だけ)は朝鮮半島に進出して交流があったらしいんだけど記録がないんだ。でも、5世紀に入ると中国の東晋が滅亡して宋が建国される。439年には北魏が華北を統一したんだ」

「華北、華中、華南」

地域としては、おおよそ淮河以北のことを指すことが多いようである。その逆で、淮河以南を華南と総称する。場合によってはさらに細かく分け、淮河一帯(黄河長江の間の地域)を華中とし、黄河以北を華北、長江以南を華南とする場合も存在する。なお、現在の中国の行政区分にはこれらの呼称はないが、歴史物語などで多く使用されているため、今でも言葉が残っている。

Wikipedia「華北」より

「華北(北朝)と華南(南朝)で中国国内が安定すると、再び、日本の記録が現れるんだ」と言うと、書棚に並んでいる本を指さした。『宋書』と印字してある。驚いた。
「宋書まであるのかい?」と言うと、
「ふふ、コレクションしてあるだけだよ。あれに“倭の五王が10回、宋へ使者を送った”ことが書いてあるんだ」と、異能が笑いながら言った。
「使者を送った五王の目的は?」
「中国の皇帝に朝鮮半島の軍事的な支配権を認めてもらい、勢力争いを有利にしようとしたと言われているね」
「でもね、宋の皇帝は倭(日本と言っても大和政権のみ)を朝鮮半島の高句麗や百済よりも下位に見ていたのよ。そのことが、“半島から逃れてきた難民が作った国”という侮蔑感があったんでしょうね」
「だから宋の皇帝は百済に対する軍事的指揮権を与えなかったんだよ。このことから大和政権は478年を最後に宋への使者派遣をやめたんだ。これ以降は大和政権による朝鮮半島での影響力は低下したんだ」
「ということは、それ以前には半島との交流はあったんだね」
「うん、4世紀だよね。日本史では『謎の4世紀、空白の世紀』と呼ばれていているんだよ」

当時、中国は魏・呉・蜀の三国志の時代のあとで、五胡十六国(ごごじゅうろっこく)の時代に入る。自分たちの国のことで手一杯で海外に目を向ける余裕はなかった。しかし、その頃の倭国(大和政権)は積極的に朝鮮半島への進出していたことがわかっている。中国吉林省で見つかった好太王碑には、「391年に倭軍が百済や新羅を攻めて服従させた」「399年と404年に倭軍が新羅や高句麗に迫るが好太王率いる高句麗が撃退した」という内容が記されている。百済記にも「倭と百済が同盟を結んで367年に新羅を討った」と記録されている。倭と百済同盟の証として奈良県の石上神宮には当時の百済から贈られたと言われる「七支刀(しちしとう)」が保存されている。
以上、「地図でスッと頭に入る古代史」(昭文社)を参照。

「当時の朝鮮半島との交流は、百済や伽耶との関係を維持して、半島の鉄資源を維持することが目的だったと言われているね」
「んで、倭の五王は?」
「研究者は、さっき言ったように五王を仁徳とか允恭とか雄略とか安康とかって特定しようとしているけどナンセンスよね」
「うん、第一、記紀が偽書とまでは言わないけれど、創作だからね。その創作の登場人物たちを五王に特定しようとすることが・・・」
「センスがないって言ってるのよ」
「大和政権は中国へ使者を送る一方で日本国内に影響力を広げていったんだね」
「国内は安定していたんじゃないの?」
「それは違うよ。ヤマトタケルが熊襲や出雲討伐に出たり、そのあとに東征に行くぐらいだから、大和政権の力は関西地方だけの話で、その他は他豪族が国家を作っていたり、東北地方なんて蝦夷国家だからさ、まったく未開の土地だと言っても過言ではないよ」
「記紀や風土記の内容だけを見れば、穏やかに統治しているように見えるけれど、現実は全然違うよね」
「あれ、天皇の残酷話はどうなったの?」
「あ、脱線しちゃった」
「安康や雄略よりも、もっと酷いのが武烈天皇なのよ。彼は天皇家の恥部とも言えるわ」
「ふーン・・・何をしたのさ」
「恐ろしいぞぅ」異能と治子が悪魔のような表情をして僕を脅かすのだった。

つづく



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