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上海くん

僕が出版社で働いていたときのことだ。記者のなかにずば抜けた理解力と文章力を持ったIという男がいた。当時ほとんどが40歳以上のロートル社員の中にあって彼は20代後半だったから随分と若々しく見えた。


Iは石川県出身で、早稲田大学を卒業したあと五反田にある家電や電気関係に老舗新聞社であるD新聞に勤めた。D新聞社と言えば、業界では一流紙なのだが、彼はおべっかばかりの広告狙いの単純な仕事内容に飽きて、数年後には僕が勤めていた出版社に引き抜かれた。僕の上司がD新聞社出身で、彼の評判を聞いたからだった。


Iの見た目は、ひょろひょろと背が高くて、若手作家のEに似ていた。よくテレビに登場するこの作家の顔を整えてまともにしたような美青年であったから会社の女性たちに人気があった。


僕はIのことを勝手に「上海くん」と呼んでいた。何故、上海くんかというと、彼は上海出身の中国女性と結婚して彼女の故郷にマンションを購入して1年の数ヶ月を中国の上海で暮らしているからだった。


彼が結婚した中国女性は不法滞在のまま上野の飲み屋で働いていたのだが、ある日、お客が忘れていった財布をネコババしてしまったことから御用となり、栃木の女子刑務所に収監されてしまった。この当時は上海君と中国人女性とはまだ結婚してはいなかったが、男女として重度の交際をしていたらしい。女性にもてるくせに真面目で一途な彼は、彼女の保釈金を稼ぐために退社後に上野の牛丼屋でアルバイトを始めた。ほとんど寝ずに夜間アルバイトを終えると、そのまま出社して、夜遅くまで働き、その足で牛丼屋のアルバイトに向かうという生活をしていた。


その上海くんが持っていた本が開高健の「ずばり東京」だった。「これ、面白いんです。文庫化されたので凄く嬉しくて…」と彼が言うので僕も買ってしまったのだった。

開高健の「ずばり東京」は、前回の東京オリンピック前後の時代風景および背景をとらえていて実に面白いのだ。特にタクシーの運転手が実体験した話「深夜の密室は流れる」は面白いのだ。


新橋から八王子まで客を乗せた帰りに甲州街道に倒れていた女性を車に乗せた運転手。新宿まで来ると女性が「旅館に連れて行って」と言うので千駄ヶ谷の連れ込み旅館に連れて行って男女のまぐわいに燃焼し尽くした朝に女性の姿はなく財布が盗まれていた話とか、池袋から後楽園まで男性を乗せた運転手。乗せたお客に「5万円やるから思い切り賭けてみろ」と言われて全部すってしまった話等々…時代を反映した話が凄く面白いのだ。


そんなことより、あれから上海くんに会っていない。一時は鬱病になっていたとかで仕事にも支障があった。どうしているんだろう…上海くん、連絡ください。

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