見出し画像

東京万景 大手町「将門の首塚」

今日は目黒で打ち合わせがあったので目黒まで出かけた。最近は電車賃を安くあげるために西船橋から東西線に乗って、大手町で乗り換えて三田線で目黒まで行く。総武線で秋葉原で山手線に乗り換えるのもありだが、こちらは乗り換え時に秋葉原での人混みが嫌いなのだ。

大手町で乗り換える際に、気になることがあった。昔、何度も拝みに行ったことがある「平将門の首塚」に行ってみたいと思ったのだ。しかし、打ち合わせを終えると疲れるのだ。普段使わない頭を使って打ち合わせをするからもの凄い疲労感に襲われるのだ。だから今まで足を向けることがなかった。

高層ビル街の中、というか隙間に首塚がある。写真中央が首塚である。

今日は頭をあまり使わなかったので(笑)、大手町で降車して首塚に足を向けた。僕の祖先は会津藩の人なので、和田倉門の会津藩上屋敷跡に手を合せてから大手門へ向う。首塚は大手門の前にあるのだ。

しかし、皇居を見るにつけ悔しい気持ちになる。「ここは皇居じゃない、江戸城だぞ!天皇は京都に帰れ!(右翼の皆さん、こんにちはw)」とブツブツ言いながら首塚に向う。今日は抜けるような青空が広がる晴天で、大手町の高層ビル(僕は10階以上は皆、高層であると思っている。ついでに言えば高層ビルは海風を遮るから大嫌いである)を見上げながら舌打ちしてブラブラと歩く。

久しぶりの首塚は印象が違っていた。案内地図を見ないと場所がわからないほどだ。以前の首塚の周りにはビルがあったが、これほどの高層ビル街のなかにあっただろうか?と自分の記憶を探っても、まったく印象が違う。僕の印象が間違っているのだろうか? あの当時は拝みに来る人もいなかったしね。

首塚を見ると数人の参拝者(?)が首塚に向って手を合せながら頭を下げている。その様子を不思議な表情で眺めている外人のカップルがいた。彼らはこの首塚のことをどれくらい理解しているのだろうか? もしかしたら彼らの方が深く理解しているかもしれないけどね。

以前は入り口から階段があって、そこを上がると異様な雰囲気で首塚が立っていたような記憶がある。それが、写真のような状況になっている。
首塚から見上げると高層ビルの間から青空が見えるが、やはり空気感が違う。

数人の人たちがいなくなるのを待って僕も首塚の前に立って手を合せて頭を下げる。ついでに首塚を激写してから再び頭を下げて地下鉄の入り口に向った。

首塚を振り返ると、思わず「揺るぐとも、よもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは」と呟いてしまう。近く発生するであろう関東周辺の大地震を防いでくれるようにと祈る。将門が地震を防いでくれるはずもないがね・・・。

幕末の「桜田門外の変」の水戸浪士たちは桜田門から和田倉門、大手門を経てこの近辺まで歩いた事も知っている。彼らは将門の首塚に手を合せただろうか?などと思いを馳せる。彼らの当時の目的は倒幕ではないので、将門に手を合せる必要もないと思うが、倒幕を狙う薩長の卑しい人間たちは将門に倒幕を祈るのが手っ取り早かった・・・あ、新皇と称した将門を崇拝するはずもないか・・・。荒俣さんの「帝都物語」も読んだことがないからよくわからない。


皆、手を合せるのだ
蓮阿弥陀仏


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?