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オフィスにお茶の時間を

I先生が来店、「今日はおもしろい茶を差し上げようと思って」
四国の「碁石茶」だった。乳酸発酵した珍しいお茶。
先生の故郷の茶なんだそうだ。

「この匂いをかぐと、春だなって思うんです」
サイロの牧草が春になると香りだす。
その匂い。
田植えのときはこの茶を煮出してみんなでガブガブ飲んでいた。
匂いの記憶は瞬時に再生する。

話は時空を行き来して、名もない人たちが楽しんだ茶、ブクブクさせる茶、泡立てに塩使ったこと、ミネラル、ビタミン、乳酸菌、海賊、なぜ大三島になく山口大島にあるのか・・・
 知りたいことがたくさんだ。

近ごろ、土着の茶をいただくことが多い。
モンゴルからやってきたやつは茶というより牧草のかたまりで、それこそサイロから出したやつみたいで衝撃だった。

人が茶を食べたり、必要としてきたのはなんでなのか。

I先生の話は生化学と哲学、生体物理学とフランス哲学に広がり、
英国リバプールの大学でのお茶の時間の話になった。

「そこではお茶の時間になるとみんな最上階のティーラウンジに集まって、お茶を飲むんです。領域を超えた人々が顔を合わせてお茶を飲みながら話して、そこから共同研究が始まったりするんです」
「だからどんなに忙しくても、うちの研究室では必ず毎日お茶の時間をしています」と。

ある部署での話。
情報共有ができていないという悩みが慢性化しているようだった。
皆キャパを超えかねない仕事を抱え、常にパソコンに向かい猛烈に仕事をこなしている。CCで回ってくる大量のメールはいつのまにか読み落としていて、クローズドな打ち合わせに参加しなかった人には伝わらない。
その弊害が、大事には到らないまでも諸所に現れていて、ぎくしゃくした空気がしーんとしていた。

みんなでお茶を飲んだらいいのに。

学生時代にアルバイトをした先は、郵政局の設計部門だった。
アルバイトの仕事は、でっかい設計図を青焼きしたり、資料を整理したり、使いっ走りだったりしたが、その任務のひとつに「お茶汲み」があった。
朝一番と10時と3時、給湯室でお茶を淹れる。
部長はこの湯のみ、誰それさんはこのカップ、お茶を淹れた器をそれぞれのデスクに配るのだ。
そして午後3時のお茶の時間は特別で、誰かがお小遣いを渡してくれて、購買部までおやつを買いに行った。
アイスやお菓子をつまみながら、仕事の手を止め、なんとなく椅子を寄せ合って、一息つきながらいろんな話をした。
若い娘はかっこうのつまみで、彼氏はいるのかとか、今なら一発アウトな話題もあったけど、こぼれおちた仕事の話が真剣味をおびて、大事な打ち合わせになっていく瞬間を何度も見た。

あれから約20年、女子のお茶汲みはたぶん絶滅したし、個人がデスクで喉を潤す以外は、悠長にみんなで茶など飲む時間は許されなくなっているのかもしれない。
ムダを戒め、システムを導入し、時間を効率化したはずなのに
なんだかうまくいかなくなっている。

お茶はそのカフェインやカテキンや味や香りで、食べたり飲んだりした人を体感的に元気付けてきた。
そしてその薬効を分かち合うことが、うれしいお茶の時間になったと思う。
自然と心開き、話もしたでしょう。

人は関係性の中でしか生きられない。
個々人に背負わせ、ムダを切り捨てたところはやせ細った土地になる。

ぐるっと時代も一周したし、女子だろうが男子だろうが、お茶を汲めばいいと思う。くじ引きとかでお茶当番を毎日決めて、ちょっとお菓子をつまめばいい。
言い出せなかった愚痴のような悩みが、やわらかに共有されて、コミュニケーションを円滑にするでしょう。
ムダにしたお茶の時間の15分は、あっというまに元を取る。

ムダ話こそ宝の山だ。
みんなでお茶を飲みましょう。


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