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すきな人の手

なんにも予定のない連休がはじまった。
なんにも予定はないが、唯一のイベントとして今夜ライブに行ってきた。

デビューのころから、かれこれ人生の半分くらいを、彼の音楽と過ごしてきたことになるな。

今回は弾き語りということでひとり。しかし足元やステージ上にはいろんな仕掛けやセットがみっしり。ギターもみっしり。
「ひとりなんですけどね、いっぱいやることがあってたいへんなんですよ」
ゆるーい斉藤節はいつもどおり。
ファンクラブに入ってるんですけど座席は2階席というね。
とはいえ最前列なので立ち上がると飛びそうでひゅーという感じだった。

オペラグラスを覗くとぼんやり近く見えた。
ギターを弾く手が見たい。弦を押さえる指が見たい。
ぶれる視野の中に繊細な指が見えた。

これまでも、ドラムをたたきながら神輿のようにスタッフに運ばれて登場したり、ギターとベースを半分に切ってくっつけたり、やりたいことのために工夫してやる、のを見てきた。
今回は十数年前の音源、若い時の多重ひとり演奏とのセッションがくらくらしたな。「幸福な朝食 退屈な夕食」とか。
古い曲もよかったな。「なんとなくやな夜」とか。
ああこれはこういうふうになったのか、これはそうきたか、
ずっと言葉が頭の中で言語化していくのがいやだ。夢中になりたいのに。

若くなくなっていくということはいいこともわるいこともあって、
体力の衰えとか物理的なこともいろいろアレだ。
しかし引きかえに知恵とやれる力を備えているし、俯瞰でとらえて考えることが自動的にできるようになっているとも感じる。

この2階席がちょうどそんな感じだった。
幾分冷静に見ながらずっと考えていた。

あー
うっとおしいな、こざかしいな
もっと、頭真っ白にして音楽に身を委ねたいのに
そことの戦いだな。

広い箱、一人演者、多くの人を楽しませるために、足りないものを補うために、さらに重奏させるために、様々なギミックやストーリー
さすが
ですが
ギター一本でいいんです。
生きてる音楽を、生きてうたうギターを、全身で聞きたい。
それは自分に向かっても言うべきことだ。

わたしのギター一本はなんだ。
衰えた容姿や小賢しさを隠すための衣装や道具やレトリックや
そんなものを剥ぎとった先にある美しさって
純粋って
取り戻したいものがあるんだ。それがなにかはわからないけど。

あたまを醒ましながら歩いて帰った。

フラワーフェスティバルの喧騒も落ち着いていて、夜の平和公園はいろんな国の人たちが静かに写真を撮っていた。

「新しい時代も、のんびりしたいい時代になればいいなと思います」
そんな言葉を思い返しながら眺めた。


昨夜、友人たちと食事をしに行った時、その店の向かいの店先で
タバコ吸いながら携帯をいじっている人が、ふとタバコを消して
店の中にすうっと入って行くところを見た。
それはもしかしたらそうだったのかもしれない。

その
すうっと入っていく姿は、細くて背が高くて静かだった。
たぶんいつもそんなふうな佇まいなんだろう。
ステージの上での振る舞いとはちがう、その静けさに
考えたりやってみたりする時間の蓄積を見た気がする。

こうありたいと思う人だ。
だれもいない店先をぼんやり眺めながらそう思ったんです。


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