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母「今日は誰と遊んだの〜?」 私「粘土!」

幼い頃、人気のある遊具で遊ぶためには順番待ちの列に並ぶ必要があった。
そんな中、並ぶ子の背中をドンッと押し、我先にとその遊具の楽しみを味わいたいと行動をとる子どもを見かける事も少なくない。俗に言う、割り込みだ。
大人の先生は、その子に注意をする。みんなが並んでいるのだから、きちんと並びなさい。と。幼い頃に学ぶことはかなり多い。
大人の世界にも、順番を守ることを知らない人がいるほどなのだから。

砂遊びにスコップとバケツを使おう。それぞれ1つずつあるが、砂遊びを3人でするとなったら、どうすることがこの場合の得策と呼べるだろうか。?
先生のいない場面では、子どもなりの知恵と工夫が試される。
まず、なんとなく3人で2つの道具を使う事も不可能ではない。どこかに砂遊びに使える道具が余っているかもと、探しに行くこともあるかもしれない。
「2つしかないから、〇〇さんは、そこで見てて。」なんてこともありうるかも。時間を決めて、道具を回し使いするかもしれない。いっそのこと、道具は使わずに素手で遊んだって良いかもしれないな、。
まあ、このくらいか。
ただもう一つだけ、幼い子が思いついた方法を、私は身をもって経験している。
小さな幼い両手に、めいいっぱい砂を持って顔面から全身にかけて相手に投げつけることで、土まみれになった人物(私)は、遊ぶどころの話ではなくなる。
という方法だ。

日除けの帽子も、顔も目も、お外遊び用の洋服も靴の中も砂まみれ。

一件落着!といったそぶりで砂を投げつけたその子は、せっせと砂遊びを始めた。つられて、もう1人の子も遊び始めた。
・・・私には、流石にその方法は思いつかなかった。
けれどいま、この文章を綴る私は、確実にひどく傷つき、その何十倍も根に持っていることは確かだ。(笑)
私自身、恨まれることをした覚えはないが、この3人の中で、1番先生に泣いて言いつけに行かなそうな人物であるという自覚はあった。

園内の自由時間で、私が外遊びを率先して選んだのは
たしかこの日が最後だった。

それから、私の親友は粘土になった。
わたしは、粘土でもっぱらピザと餃子を作り続けていた。
餃子の皮には綺麗なひだがあり、割ると中からは様々なカタチの具材が出てくるのだ!!!!!!!!!!!(ビックリマーク多すぎた。)
日に日にピザらしいピザへ、餃子らしい餃子へと、進化を遂げる私の粘土作品たち。形が崩れぬように粘土ケースへ入れて家まで持って帰ると、
私の餃子入刀式が家族の前で行われる。果たして、何百回行われただろうか、。
餃子の中央を粘土用のヘラでカットされると具材が出てくるというお決まりのあのくだり。家族は、毎回盛大ではない素直な拍手と満面の笑顔で僅かな改良点に気づき、興味を示して、褒めてくれていた。

あの時間はきっと忘れられない。だって、私の大好きな時間だったからだ。
もしあの時、顔面全身に大量の砂を浴びることが無かったら、こんなに粘度遊びへ没頭することは無かったかもしれない。
そう。砂まみれになった子どもは、大好きと思える時間を手に入れたのだった。
ここまで来たら、砂も外も粘土も餃子も関係ない。
(いいえ。全く関係ないわけではないと思います。)

顔面全身砂まみれエピソードを母が知るのは、私の性格上、かなりの年月が経ってからにはなるのだが、今となってはどうでもいい。
(と、言いつつも鮮明に憶えている私は矛盾そのものです。)

大人にも、順番が守れない人はたくさんいる。
自分にとって不都合が生じると、ある意味、そして色んな意味で爆発する人もいる。(例えその場に砂場がなくてもね。)
もう少々お待たれずに小暴れする人もいるし、もしかしたら世界の平和を願いつつ、世界が崩壊する手助けを少しずつしている人もいるかもしれない。

子どもの発想は限りなく自由に近く、残酷にもさほど遠くはない。
素晴らしく無垢で、素晴らしく立ち止まることを知らない。

大人は立ち止まって周りを見渡すことが多少できる。
なぜ。?
それは、子どもよりも、地球のここらへんで長く生きているから。
『 過去、今さっき、今、この後、未来 』
この中の、過去、今さっきの部分を眺めてきた時間が子どもより多い。
経験値というものなんかな。だからこそ、より良いものを無意識的に選択したくなる。これも立派な欲だ。

子どもの今、大人の今。
『この後』という時空に自身を投げ入れる瞬間、己がより良い条件へと向かって突き進みたくなる。これもまた立派な欲だ。

さて、私が言いたい事は、伝わっただろうか。

少なくとも、
「人間は幼くても大人になっても欲まみれだ。」
ということではない。
「私を砂まみれにしやがって。あの野郎。」
ということでも全くない。

母は常に質問をする時には、ポジティブな聞き方で質問をしていたらしい。「何か楽しいことはあった〜?」や、「面白いことはあった〜?」と聞かれていたことを、私自身も覚えている。
その中で、楽しかったことに「餃子」をあげ、「誰と遊んだのー?」と聞かれてた時に「粘土!」と答えたのだ。その頃、母は、さりげなくもう一度誰と遊んだのかと聞いたがやっぱり粘土だったらしい。

母は、そのとき、ひとりぼっちで外ではなく室内で粘土遊びをしていることをなんとなく察しただろう。
けれど、その時の母は、粘土で餃子を作っているということに焦点を当てて私がお気に入りの餃子を大事に家に持って帰り、自信満々に入刀式を行うくらいまでに私の遊び方に興味と関心を持って接してくれたのだと今になって気づく。

母への感謝と偉大さ。
そして、誰と遊んでいるかと聞かれたその問いに、
自信を持って『粘土!』と答えた自分自身をリスペクトし続けたい。

私が言いたいこと。
それは、ただ、それだけ!


※見出し画像の写真は地元のラーメン屋さんにある
 本物の絶品餃子です。

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