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コミュニケーション能力って本当に存在するの?〜「暴走する能力主義」を読んで〜

現在、大学入試の方式をめぐる議論が激化している。
共通テストの記述式導入や外部英語試験の導入など多くの変更の是非を問い、国会から一個人に至るまで実に多くの意見が飛び交っている。

ではそもそも、どうして教育に対してこのような変更(彼ら好みの言葉で言うなら改革)を加えるのか、論法はこうだ。

「近年のグローバル化する社会で活躍する人材を確保するには既存の教育では太刀打ちできない。新時代に必要な能力を育成できる教育が早急に成されるべきである。」

その主張は一見時代の流れを捉えていて、人によっては「そうだよね」と思わず首を縦に振ってしまう事もあるかもしれない。

しかし政策、特に愚策の言い分は良策よりも最もらしいというのが歴史の常である。(消費税増税もそのひとつかもしれない)


その中に教育現場や就職活動において最も重要視されていると言っても過言ではない「コミュニケーション能力」がある。今回はこれに焦点を当てていきたい。

学校教育の新しい指導要領にも「コミュニケーション能力」を始めとする新時代に必要(とされているかのような)な能力の養成が盛り込まれ、所謂「コミュ力」、「コミュ障」なる言葉が日常的に使われるような有様である。


では、「コミュニケーション能力」がある人・ない人とはどのような人だろうか?ちょっと思い浮かべて欲しい。


恐らく、だが髪型をバッチリ決めてスーツを着た爽やかなビジネスマンや茶髪・金髪の兄ちゃんを想像したのではないだろうか?

そして声はハキハキとして背筋はピンと伸び、笑顔で歩み寄ってきて「うんうん」とこちらの話をさも興味あるかのように振舞ってみせる。そんな人を。


対して「コミュ力」の無い人はメガネを掛けて髪もボサボサ。どこか暗く、幸薄く、いつもうつむいており人との会話ではまるで背景の一部かのように振る舞ってその場をやり過ごす。ちょっと前のオタクっぽい人を想像したのではないだろうか?


両者の間には確かに明確なコミュニケーション能力の差があるように見える。でも考えて欲しい。


彼らが1人でいる時にも同じことが言えるだろうか?

どこかの番組では無いが、彼らが自宅で1人過ごしている様子を我々が(あるいは企業の面接官が)観て
「こいつのコミュ力は53万だ!」と判断出来るのだろうか?

否である。

何故なら本来コミュニケーションとは人と人との関係の中にしか存在しないからだ
もしコミュニケーション能力が筋力やIQのように個人に内在するものであれば、その能力値は個人に固有のもので不変である。

「コミュ力が無い人」であっても、友人と話すときは笑顔にもなるだろうし友人の話には興味を持って耳を傾けるだろうし、時には鋭い質問を飛ばす時もあるだろう。この時、その人は本当に「コミュ力」が無いのだろうか?

つまり我々が「コミュニケーション能力」と感じているものはコミュニケーションを取る相手によっていとも容易く変わるものである。

それをどうして測れるというのだろうか。

とここまでの話はおそらく大体の人は何となく察しがついているだろうしましてや企業のお偉いさんが分かっていないはずがない。

では何故こんなにも就職採用にコミュニケーション能力が重視されているのか?

答えは単純。都合が良いからである。


現代社会は暫定的な能力主義の元に成り立っている。
企業は能力ある学生を採用することを目的に面接を行う。(建前としては行わなければならない)

数ある能力のうち、そのパラメータを企業側で一番操作しやすいものが何を隠そう「コミュニケーション能力」なのである。

同じような成果、能力を持つが学歴に差がある学生を判断する場合、場面や相手・話題によって容易に変化し得るコミュニケーション能力は実に都合が良い。

例えば2人の学生が圧迫面接を受け、どちらもビビって口数が減ってしまったとしよう。

すると

「あの状況で萎縮するようでは社会人としてのコミュニケーション能力に欠ける」

「あの状況でも冷静な対応を見せた。これはコミュニケーション能力の現れである」

とあら不思議。いとも簡単にコミュニケーション能力が操作されてしまう。そしてどちらも最もらしい言い分である。

実際ここまで極端な例は無いにしても、第三者的目線に立った場合、コミュニケーション能力なるものがいかに地に足が付いていないものか分かるだろう。


私個人も随分この「コミュニケーション能力」には踊らされてきた。今も踊らされているのかもしれない。

人と話すときは自信が無い自分を隠すように、世間一般で言われる「コミュニケーション能力」がさもあるかのように振る舞い。自己満足に浸る。

なんと滑稽であろうか。本当に直視しなければならないのは自身の未熟さであり、傲慢さであるのにもかかわらず。

そして折角会えた人たちの事は二の次で自分がちゃんとコミュ力ある人間と思われるかどうか、だけに一喜一憂する。

見るべきは相手の方だと言うのに。

コミュニケーションとは本来価値観の違う人々との間で刺激をもらい、いかに自分の視野を広め相互の理解を深めるかの手段に過ぎず、それ自体が目的になってはならないのだ。


小さい犬ほどよく吠える。その一言に尽きるのかもしれない。


参考書籍
暴走する能力主義 ~教育と現代社会の病理~
(ちくま新書 出版 著:中村高康)

https://www.amazon.co.jp/dp/4480071512/ref=cm_sw_r_cp_awdb_c_sXY4DbFFMQXBQ

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